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季語道楽(21)   坂崎重盛

ゼツメツキゴシュウ(絶滅季語集)を楽しむ

夏井いつき先生の『絶滅寸前季語辞典』の本文をさらに覗いてみよう。「歌詠鳥(うたよみどり)」が「鶯」の副題(別の呼び名)であったり、「貝寄風(かいよせ)」が陰暦二月二十日前後に吹く西風のことであったり、「風信子」がヒヤシンスの別名、などと、それこそ「クイズ雑学選手権」の問題に出そうなことがどんどん紹介される。
しかも、それら絶滅寸前季語の解説が、いつき先生ならではの頓智の効いた(この、とんち、という言葉も、ほとんど死語? 人の口から、この言葉を聞いたが、まったくない。戦後、NHKの放送で『とんち教室』という超人気のバラエティ番組がありました。また、筑摩書房から、この「頓智」という言葉を雑誌名にした出版物がありましたが……)軽妙なエッセイとなっているのである。
例えば「風信子」の項では、季は初春、植物、の注があり「ヒヤシンス」の別名、の後に、こんな文章が続く。紹介させていただきます。
『大歳時記』には、「風信子」「夜香蘭(やこうらん)」「錦百合
(にしきゆり)」が副題として載っている。こうやって見ている
と、植物系季語における和名とのギャップは、なかなか面白い
問題だ。
そんななかで、「風信子」という和名は、楚々としたヒヤシン
スのイメージをかすかに引き継いであるように思え、ワタクシ
的好感度は高かった。
と、ここまでは、かなりまともな感想。しかし、続く一文がなつき先生の本領、というか地が出て、ついニンマリさせられる。
が、自作の一句「遺失物係の窓のヒヤシンス」を「遺失物係
の窓の風信子」と置き換えてみたら、風に吹かれて迷子になっ
た妖怪・子泣きジジイが窓口に座っているような気がして、な
んだかガッカリ。
例えが凄いですよ。「風に吹かれて迷子になった妖怪・子泣きジジイ」なんて。水木しげるの、あのキャラクターを読者が先刻承知のもの、と大胆にも判断しての表現なのだ。
(わかる人にはわかってもらえる、わからぬ人はそれはそれでいい)という俳句の世界の人ならではの、フットワークの効いた、また思い切りのいい俳諧精神の発露の文と言えるでしょう。
で、最後に、
泣き虫のわけを知ってる風信子   夏井いつき
と、なにやら可愛い句で、この一文をしめている。
だいたい本文全体が、こんな感じのユーモラスにしてエスプリに富んだ解説文なのだが、今の季節は夏なので、その季語をチェックしてみよう。
「安達太郎(あだちたろう)が「雲の峰」の副題で積乱雲の異名で、坂東太郎、丹波太郎、比古太郎も同様という。「妹背鳥(いもせどり)は「時鳥(ほととぎす)」の異名とのこと。「時鳥」が「ほととぎす」であることは知ってはいたけど「妹背鳥」などという雅(みやび)な別名をもっていることは知らなかったなぁ。それにしても「ほととぎす」は、あれこれ別の名で表されますよねぇ。正岡子規の「子規」は結核で血を吐いたことから「泣いて血を吐く子規(ほととぎす)から子規と号したといわれるし、「不如帰(ふじょき・ほととぎす)」は徳富蘆花の人気小説で、そのタイトルによって一般の人たちにも「不如帰」の文字が知られるようになった。
この物語の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!」という、結核を病む悲劇の女主人公・浪子の吐くセリフはなぜか子供ごころにも記憶があった。
浪さんのセリフはさておき、この「ほととぎす」︱︱「杜鵑」「杜宇」「蜀魂」「田鵑」「沓手鳥」「霍公鳥」などと表記されるかなりメンドウな季語なのだ。さらに、その非道で“犯罪的”ともいえる子育ての生態(杔卵)を知ると、ほととぎすを憎む人がいても不思議ではない。(興味のある人は「托卵」についてチェックしてみてください)。
「霍乱(かくらん)」というのも妙な雰囲気の季語だ。季は「晩夏」。
「暑気中(しょきあたり)、食中毒によって起こる、吐いたり下したりする症状の総称」とある。簡単に言ってしまえば今日の「急性胃腸カタル」が一般的だがコレラや「日射病」をも「霍乱」といっていたという。と、なると最近取りざたされている「熱中症」なんかもふくまれるのかしら。
この「霍乱」、ぼくなどは「鬼の霍乱(おにのかくらん)」という言葉で頭の中に入っている。「ふだんは鬼のように丈夫な人が病気になること」とおもって、近況報告の手紙などで、季節にかかわらず、体調を崩したときなど、自嘲気味にこの言葉を使ったりしていたが、正しくはなつ、それも晩夏限定の言葉だったのですね。知らなかったなぁ。
もうひとつ、その実態を知って、つい笑ってしまったのが「土瓶割(どびんわり)」。なんだぁ、この季語は? しかも「夏」でしょう? これが実は「尺取虫」の異名という。あの妙な動きをする尺取虫をなぜ「土瓶割」などというのか? その理由が笑えるのだ。
あの尺取虫、じっと木の枝の途中などで静止しているときは、色といい、ピンと張った形といい、まるで細い枝、そっくり! その細い枝の擬態に、そそっかしいのが土瓶を掛けようとし、当然、土瓶は落ちて割れてしまう││から、「土瓶割」という次第。
落語的見当世界のオカシサですね。そこで思い出したのが季語ではないが、「半鐘泥棒」。これは、やたらと背の高い人を、からかって、こう呼んだりした。背があまりに高いので火の見櫓の鐘を盗める、という見立て。かつては、こんな言葉そびの世界が生活の中で生きていたのですね。
「土瓶割」、イッパツで覚えた「夏」の季語となりました。
以上は『絶滅寸前季語辞典』からの紹介だが、この続刊と言える『絶滅危急季語辞典』も見てみよう。こちらも「夏」の季語をチェックする。「牛の舌」が魚の「舌鮃(したびらめ)」、「金砧雲(かなとこぐも)」が「雲の峰」同様の「積乱雲」、「高野聖(こうやひじり)」が、なんと水の中に棲む凶暴な昆虫のタガメ、「こころぶと」は「心太」と書いて「ところてん」などと、こちらも難解季語や珍季語が列挙されているが、ぼくが好きなのは「三尺寝(さんじゃくね)」「昼寝」の副題という。もちろん、これも知らなかった。夏の日足が三尺(約九〇センチ)動くあいだほどの昼間の短い眠り、というわけ。なんか粋ですね、たとえの表現が。
心中のやうに愚妻と三尺寝    徳永逸夫
という例句も「心中のやうに」という言葉がかえってユーモアというか、心ゆるした夫婦のおだやかな関係を伝えてくる。
「夏の霜」もきれいな季語だ。これは「夏の月」の副題。「月の光が地上を照らしている夜景を、霜が降りたと見立てたもの」とある。「夏の霜」という季題そのものが、すでに装飾的な言葉なので、いつき先生は「危険性」があって「近づきたくない」といいつつ、
夏の霜いま林立の摩天楼
という、ブロードウェイのミュージカルの一シーンのような情景の句を添えている。
「はたた神」の「はたた」は「霹靂(へきれき)」とかかれ「晴天の霹靂」、つまり「雷」の副題なのだが、いつき先生はここで、高校時代の憧れの先輩との出会いと、この「はたた神」、つまり「雷」との遭遇によって、その淡い(というか、たった二日の)小さな恋は、あえなくも幕を閉じたことを、オモシロオカシク回想している。で、先生の例句が、
はたた神には恋してはなるまいぞ
などと、もう、全文紹介したいくらいなのだが、それではまるで完全パクリになってしまうので、このくらいにしておこう。上・下巻二冊、ご自身で入手して楽しんで下さい。
と、下巻の『絶滅危急季語辞典』のページを閉じて、ふとカバーの帯のコピーに目が行った。「アレも季語 これも……季語?」とだけある。(うん⁉︎ ハハーンこれは、多分、あの歌詞のパロディか! いや絶対そうだ)と勝手に確信した。
もう四十年ほど前? 松坂慶子がテレビドラマの中で妖艶なタイツ姿で歌った「愛の水中花」(五木寛之先生作詞!)の「🎵あれも愛 これも愛」という一節。ま、どうでもいいことですが、いつき先生の文章に接していると、頭脳が妙な活性化を示し、あらぬことに神経が反応する。
ところで、いつき先生の著書を楽しんでいるとき、「週刊朝日」の人気連載、林真理子の「マリコのゲストコレクション」につい最近、夏井いつき先生がゲストとして登場、林真理子とのトークを披露していた。(二〇一九年五月二四日号)
例の「プレバト」の俳句コーナーのことを中心に、いつき先生の俳句への思いが、あの、飾らぬ口調で語られる。「あんなヘタクソな句を添削したことがないんです(笑)」「梅沢さんは、向こうが突っかかってくるから、払わないわけにはいかないので」「俳句はつくることも楽しいけど、読み解くことが楽しいんですよ」「ポケット歳時記」を持っている生活と、持っていない生活は「ぜんぜん違いますよね」(etc)
いやー、いつき先生の、人間力そして、俳句への愛、素晴らしいですよね。そして、古来より俳諧の重要な根幹のひとつ、自由と遊びの精神!
その、いつき先生が、今日のようにブレークする二十年近く前から、俳句を楽しむための活動から結実した『絶滅寸前季語辞典』、『絶滅寸前季語辞典』、快著にして、怪著、いや疑いなく名著であると確信するのです。
いやー、買っててよかった!

次回は、これまた、不思議な歳時記、季語辞典、季語集の類をズラリと紹介したい。たとえば沖縄の俳句歳時記ですよ。いやいや、沖縄どころにではなく、ハワイ歳時記もあるんです。しかも、かなり立派な造本の。

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