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私の手塚治虫(6) 峯島正行

 成人漫画を描く 

 週刊誌ブームと漫画

 

手塚の大人漫画の執筆は、前回紹介した「兵隊貸します」(「漫画読売」昭和三一年三月五日号)以後、本格的な成人向け漫画の執筆は、特殊な例外を除いて、「別冊週刊漫画サンデー」昭和三八年九月にのった「午後一時の怪談」「週刊漫画サンデー」九月四日号に載った「クラインの壺」まで、約八年間待たねばならなかった。

 それは、日本のマスコミ、ジャーナリズムの変動と、手塚個人の事情という二つの理由がある。まず前者の方から述べて行こう。

 前回、世間で漫画ブームがやってきたおかげで、「漫画読本」が生まれてきたように述べたが、漫画ばかりが、盛んになったのではなく、小説の世界、いわゆる中間小説の雑誌も「小説新潮」をはじめとして、何種類も出た。

また神武景気と言われた経済の成長路線にのって、政治経済の情報を早く手に入れることを競い、また豊かになるに従い、娯楽の情報、社会的動向に関する情報に人々が、従来考えられないくらい関心を持つようになった。

 そういう社会的動向が、ただちにマスコミに反映しないはずはない、

 それが出版界の週刊誌ブームという形で現れたといえるだろう。

 週刊誌は、従来は四大新聞社の独占出版物であった。一般の出版社が真似しようとしても出来ないものと考えられてきた。それは、出版社には、取材組織がないこと、取材能力を持つ人材がいないこと、印刷能力、販売体制を持たない事などによる。

 ところが、昭和三一年、新潮社が「週刊新潮」を刊行、主婦と生活社が、日本初の女性週刊誌「週刊女性」を刊行し、それぞれが成功したことで、出版社でも週刊誌が可能なことが実証された。とくに「週刊新潮」は、柴田錬三郎、五味康祐などの人気作家の連載小説、ニュースの裏側を丹念に掘り下げる情報記事の作成が、読者の関心を集め、一種のブーム状態を呈した。

 それを見ていた他の大手出版社が、一斉に週刊誌を出し始めた。昭和三四年のことである。それぞれの社風、専門性を生かした編集をしたから、多種多様な、週刊誌が出た。

 従来の総合誌的なものから女性向、若者向け、漫画専門の週刊誌まで出現した。これは出版界の様相を一挙に変えたといえよう。

 現存している週刊誌のほとんどが、この年昭和三四年に創刊されたものである。この年は出版文化にとっては記念すべき年になった。

 その誌面を構成するために漫画家、小説家、その他の執筆家も一挙に多忙になった。収入も一挙に増え、銀座の文壇酒場が盛況を極めてゆくのであった。

 児童雑誌の世界も「少年マガジン」、「少年サンデー」を先頭に週刊誌時代に入った。当然手塚も、スター的執筆者の役割りを果たすようになる。

 

そのような週刊誌ブームの中で、「漫画サンデー」、「週刊漫画タイムス」という漫画専門の週刊誌が登場し、その他にも隔週刊の漫画誌がいくつも出た。

私は入社以来約10年、「実業之日本」の編集部にいて、財界人たちの動向を追っていた。その私が、日本で初めての、漫画を主とする週刊誌創刊の役目を命じられたのだから、大変であった。それが三四年の四月のことだった。しかも八月には創刊号を発刊しろという命令だった。漫画にはズブの素人である私に出来るかどうか。

 実業之日本社では、それ以前「ホープ」という高級娯楽雑誌を昭和二一年から発行し、その漫画ページが当時としては、評判だった。この雑誌は昭和二四、五年のドッジ・ラインによる不況の波を食らい、廃刊になっていたが、当時活躍した先輩が、幸いなことに、私を助けてくれてどうやら、昭和三四年の八月創刊に漕ぎつけた。

 その先輩から、この週刊誌の話を聞いた「文藝春秋」の池島新平は、今どき、漫画家は忙しくて、月刊誌の締め切りさえ、やっと間に合っているくらいのもので、彼らを主力に使って週刊誌の発行などは、とても無理だ、と批判したという話を聞いた。

 たしかに漫画家はほかの週刊誌の連載漫画や単発ものを請け負う仕事が増えて、多忙を極めていた。と言っても後で考えると、手塚をはじめ児童漫画家たちがが、多くの雑誌に長編を描いていた忙しさとは、別物であったと思われる。

 とにかく横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄ら漫画集団のトップクラスの人の応援を得て、雑誌は無事発行を続けた。しかし、そこに並んだ作家は、漫画読本はもちろん、ほかの週刊誌、月刊誌、新聞で常に見る顔ぶれで、新味がないせいか、雑誌の売れ行きは、いまひとつという状態で、池島の批判が現実のものになりかねない時もあった。 

 

  ポンコツおやじの出現

 

その時、突然富永一郎というナンセンスの天才が「ポンコツおやじ」をもって登場、「花の操はすこぶるピンチ」というような七五調の「吹き出し」の名調子に載って大評判となった。つづいて、サトウサンペイが、新しいタイプの現代的サラリーマン漫画「アサカゼ君」ひっさげて登場した。

 彼らに加えて、当時人気上昇中の若手漫画家、馬場のぼる、小島功、鈴木義司といった漫画家がずらりと並ぶに至って、雑誌は安定するとともに斯界の権威を持ち始めた。

 私が最初から気になっていたのは成人漫画には、ストーリーでつないでゆく物語漫画がないというか、非常に力の弱いものしかなかった。

 わずかに松下井知夫が、週に四ページほどの短い作品を描いていたに過ぎない。松下自らも「ストーリー漫画研究会」という会を主催していたが、大人の世界ではストーリー漫画の新人が出てこなかった。

 漫画雑誌にストーリー漫画がないということは、メインディッシュのないコース料理のような物足らなさがあった。

 それを予想した私は創刊のテスト版を作るとき、ハードボイルド作家大藪晴彦に頼んでストーリーを書いてもらい、挿絵画家にそのストーリーをコマ割りの絵で表現して、その後出てきた劇画とほとんど同じような作品を作った。その際アメリカの街頭の新聞売り場で売っていた,テンセント・ブックを参照した。そこではスーパーマンや西部劇などの物語がメインであった。そういう劇画的な作品は画面が黒っぽくなり、内容も刺激の強いものなるのは、当然だった。

 それを他のナンセンス漫画と並べて掲載してテスト版をつくり、販売関係方面に配ってもらった。それに一番反対したのは、東京出版販売の仕入れ責任者だったらしい。

「こんな汚いものを載せて売れるものか」

 劇画の載る週刊誌など初めて見る販売関係者には総じて,評判が悪かった。余談になるがそれから数年後、同じ人間が「お宅の雑誌には劇画がないから弱い」といったのを聞きあきれたもんだ。

 とにかく、社の販売部はすっかりビビってしまった。それで、劇画的ストーリー漫画の掲載をやめて、ナンセンセンス漫画の雑誌を作ったのだが、劇画の載った週刊誌1号の夢は消えた。

 先ほども述べたとおり、漫画家の活躍で、雑誌の売れ行きは安定したので、プラスアルファの必要を感じていた時、思いついたのが、児童漫画の王者、手塚治虫に長編ストーリー漫画を頼むことであった。  

先にも言った通り、児童漫画と成人漫画とはほとんど閉ざされた別世界だったので、手塚に頼むことをここにきて、やっと気が付いた次第であった。

私は早速、手塚の事情も知らないで接触を始めた。しかし手塚にとって、この時代は疾風怒濤の時であった。とても私の要求に応ずる事情ではなかった。

 

疾風怒濤の日々

 

児童漫画家の梁山泊の観を呈した豊島区椎名町にあった、安アパート、トキワ荘の物語は、今更私が語る資格などはあるまい。

 ここに集まった俊英たちを中心に「新漫画党」が結成されたのは、昭和三一年八月だった。ちょうど手塚が、「漫画読本」に成人漫画を描いた頃である。メンバーは寺田ヒロオ、石森(後年の石ノ森)章太郎、藤子不二雄、鈴木伸一、坂本三郎、赤塚不二夫、つのだじろう、永田竹丸、守安なおや等等。後に園山俊二が加入。

 もともとトキワ荘には手塚が住んでいた。そこに手塚を慕い、藤子たちがやってきて住みつき、手塚が越していったあとも、次から次へと漫画家の卵がやってきて住みついた。後には水野英子も加わり、漫画のメッカになったのである。彼等の集まりには、手塚も顔を出していた。

 その若い漫画家たちが次から次へ世に出てゆき、日本中の少年読者をひきつけるようになると、前に説明した手塚のジレンマが始まるのである。彼らは手塚のかわいい後輩であるとともに、人気を競う競争相手になったわけで、その中で、トップを維持するために、手塚は神経をすり減らしたといえよう。

 

 昭和三四年、「劇画工房ご案内」という挨拶状が、手塚のところにも舞い込んだ。差出人、つまり劇画工房のメンバーは、さいとうたかを、佐藤まさあき、石川ふみやす、桜井昌一、辰巳よしひろ、山森ススム、K・元美津であった。

 その挨拶状に、こうあった。

 

――最近になって映画、テレビ、ラジオにおける超音速的な進歩発展の影響を受け、ストーリー漫画の世界も新しい木の芽をふき出したのです。

 それが劇画です。

 劇画と漫画の創意は技方面でもあるでしょうが、大きく言って読者対象にあると考えられます。子供から大人になる過渡期においての娯楽読物(中略)劇画の読者対象はここにあるのです。劇画の発達の一助は貸本屋にあるといってもいいと思います。

 未開拓地“劇画”諸兄のご声援をお願いします。――-

 

 手塚の「新宝島」に始まった大阪の松屋町の貸本屋ブームは既にさり、昭和三十年ごろは大阪の漫画出版社は気息奄々だった。その中の一軒「日の丸文庫」に辰巳よしひろが屯していると、痩せた男が入ってきて、「さいとうたかを」ですと自己紹介した。すぐに仲良くなった二人は佐藤まさあきとか高橋真琴といった仲間を集め、各自短編の劇画を描き、その短編集に「影」という題名をつけて、売り出したという。

 これが反響を呼び、次第に「影」の形式を真似た漫画本が大阪ばかりでなく、東京にも表れた。その「影」を買って行く大人も増えた。

しかしリアルで表現がどぎつい、子供には刺激が強すぎるという批判の声もあがった。

「子供漫画と混同されていろいろ言われるのだから、名前をかえよう」ということで、みんなで考えて結局「劇画」と呼ぶことに決めたのだという。

 そして前記の挨拶状となったようである.辰巳、さいとうらは既にその前、昭和三二年に上京し、東京で活動していた。東京で当時はまだ戦記漫画を描いていた水木しげるに、辰巳があった時「これからはこういう形式のものが当たりますよ」と激励されたという話を、手塚が紹介している。(『ぼくはマンガ家』)

 同じころ白戸三平という大物が登場してくる。昭和三二年の暮れ、白戸の奥さんが三洋社の永井勝のもとに、劇画の原稿を持ち込んだという。これが甲賀武芸帳、全八巻である。これは忍者の世界に階級闘争の本質を究明した、迫真力のある作品だった。

 白戸は、プロレタリア画家として有名だった岡本唐貴の子息だそうだ。そして昭和三四年三洋社から「忍者武芸帳」がスタートした。忍者武芸帳全一八巻は、その方面のファンにとってはバイブルのように尊重され、大学生の読者も多く、「朝日ジャーナル」で、漫画を読む大学生という記事が出て大評判となった。

 こういう成り行きは、手塚を「ジレンマ」に落ち込ませるに、十分だった。彼は次のように回想する。

「劇画が貸本屋にあふれ出し、ぼくの家の助手たちまでが二〇冊、三〇冊も劇画を借りてくるようになったとあっては、ぼくも心中穏やかではない。ついにぼくはノイローゼの極に達し、ある日二階から階段を転げ落ちた。

 マンネリだ、マンネリだと読者の手紙が殺到し、何を描いても評判が悪く、しかも助手は劇画に熱中する。もう世の中はおしまいだと思って、千葉医大の精神病院に精神鑑定をしてもらいに出かけた」(『ぼくはマンガ家』)

 その結果は、かなり重症だということで、

仕事やめること、自然の豊かな場所で、静養すること、三三歳で独身はよくないから、結婚しなさいと医者に勧められた。

 手塚は、仕事をやめて、山にこもり、結婚して、運動をするなどというが、そんなことがいっぺんにできるかと憤慨した。そこでまた二階から転げ落ちた。

 

 結婚、そして学位取得

 

虫プロダクションを設立

虫プロダクションを設立

マネージャーが、見るに見かねて、

「そろそろ結婚した方がよろしいのではないですか」

 と忠告してくれた。結局手塚はここで結婚を決意した。選んだ相手は、幼馴染で遠縁ある岡田悦子という女性だった。

 手塚は結婚したころの思い出を次のように書いている。

「すると出版社は、それと察して、御祝儀をくれるどころか、仕事の締め切りをべらぼうに繰り上げてきた。

 おかげで、ぼくは結婚するまで彼女とは、やっと二回しかデートができなかった。しかも一回目は、ノイローゼがたたって待ち合わせする駅を電車で乗り過ごしてしまい、あわてて戻って彼女にあったら、ほとんどデートの時間が無くなってしまっていた。

二回目は、よせばよいのに、彼女を連れてフグ屋へ上がり、一杯飲んだ。すると、仕事疲れがたたったのであろう、一度に酔いが回ってきた。『お茶を飲みましょう』と、真っ赤になって彼女を喫茶店に連れ込み、椅子に座ったきり、ぼくはグーグー寝てしまった。彼女はしかたなしに、ぼくが起きるまでボソッと僕の寝顔を見ていたそうである。

いよいよ東京で結婚披露宴となって、松下井知夫氏に媒酌人をお願いした。ところが、ぼくは、披露宴の一時間前まで、雑誌社に閉じ込められて原稿を書いていた」(『ぼくはマンガ家』)

新婚旅行でもいろいろあったらしいが、そのような出発をしながら、彼は理想的な家庭を作り出したようだ。仕事の関係から、家庭で過ごす時間は少なかったようだが、長男の眞によると、優しく温和で、良き父であり、良き亭主であったという。眞によると子供やや妻の人格を認め、礼儀正しく振る舞うという、家庭の中でも紳士だったという。

多忙を極めた手塚氏にとっての貴重な家族団欒

多忙を極めた手塚氏にとっての貴重な家族団欒

しかし仕事の上では、常に気が苛立っていた。そういうフラストレーションが溜まると、気分転換とマンネリ打開のため、漫画とは別の世界に手をだし、それに熱中することで気分を紛らわせたものであった、と彼は言う。

その気分転換の一つだったかもしれないが、いつ漫画家を止めても、医者に戻れるように、奈良医科大学の研究室に通った時期もあった。彼はご承知の通り、阪大医学専門部を出て、医者の免許を持っていた。さらに医学博士の学位をもらうために、奈良医科大学の恩師のもとに通ったという。

その在学中に、その話をきいた私も、この忙しいのに「よくそんな時間が取れるな」、と感じ入ったことがある。しかし、手塚の生涯を見渡してみると「よくそんな時間が」ということばかりの人生であったような気もしてくる。

奈良医科大学で研究したのは、「タニシの精虫の研究」であった。タニシを研究対象に選んだことを、手塚は次のように書いている。

「人間の精子の発生の仕組みを知ろうとしてもなかなか新鮮な標本にお目に掛かれない。その点タニシは、生きてぴちぴちしていようがいまいが、誰はばかることなく切り刻んで生殖器の標本ができる。そして人間の精子のできぐあいも、タニシのそれも、同じようなものなのだ。タニシの標本から、人間のそれを類推する」(『ぼくはマンガ家』)

こう書かれると、まさに後に「漫画サンデー」誌上に発表された、名作「人間ども集まれ」の取材のために、大学研究室に通ったかのように思えてくる。この作品では、主人公の天下泰平の精虫が特殊な形態をしているために、巨大な悪が生まれるというのが、主題になっているのだ。

この研究は、「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」という論文となって奈良医科大に提出され、医学博士の学位を受けた。昭和三六年のことである。

 

鉄腕アトムの放映

 

この学位を取った年の六月、念願のアニメーションの制作に乗り出した。手塚の、アニメーションへの夢は前に書いたとおりである。すでに昭和三三年には東映動画の嘱託となり、「西遊記」というアニメの原案構成、演出を受け持っている。また三五年には東映動画の「シンドバッドの冒険」の脚本執筆に、北杜夫と参加している。

そしていよいよ自らの手で制作に乗り出すことになった。まず数百坪の土地を練馬の富士見台に求め、自分の邸宅を作り、スタジオ用の土地を用意した。

手塚は夫人に向かって「これから俺は、大変な事業を始めるので、成功してもしなくとも、うちはひどい窮乏生活に見舞われるが、我慢をしてくれ」と、新事業を創める覚悟を示した。

そして、手塚治虫プロダクション動画部を設立した。その出発の際のメンバーはたった六人であった。まずこの六人でできる、実験作品を作ろうと、「ある街角の物語」という作品を一年がかりで作り上げた。これは一種の映画詩であった。

同時に、動画制作専門の株式会社虫プロダクションを設立、手塚の邸内に斬新な建築のスタジオを作った。

昭和三七年一一月、東京銀座のヤマハホールで

「これは虫プロダクションの名刺代わりです」

という看板を掲げて、「ある街角の物語」を発表し、これが大評判となった。

 こうして発足した虫プロであったが、いつまでも手塚の漫画の稼ぎで、スタッフを養い作品を出してゆくことはできない。そこで考えた末、テレビ漫画を作ろうということになったのである。

はじめに手掛けたのが、「鉄腕アトム」をテレビ化することだった。さまざまな問題もあったが、それを克服して、三八年一月一日から、フジテレビで放送開始することになり、これが世の子供の爆発的人気を呼んだ。放送開始の歌とともに日本中の家庭の茶の間に流れ、アトムを知らない者はいないという時代になった

やがて玩具メーカーや繊維業者がアトムを商品のマークに使いたいと申しでて来るようになった。いわゆるマーチャンダイジングである。これによる収益が莫大で、手塚も一息という所までくると同時に虫プロのスタッフも次第に増えて行った。

 

そのころになって、ようやく手塚は、我々の希望を聞いてくれるようになったのである。そして、「午後一時の怪談」(「別冊漫画サンデー」昭和三八年八月号)「クラインの壺」(「週刊漫画サンデー」九月四日号)「宇宙から男が」(同誌一二月四日号)「大日本帝国アメリカ県」四(同誌〇年七月二八日号)といった具合に、読み切り物を書いてくれた。

ここに成人向けのストーリー漫画が、市民権を得ることになったといえよう。昭和四一年には四作の読み切り作品を描いてくれた。そして翌年の正月から畢生の長編連載の執筆が始まる。すなわち前に述べた「人間ども集まれ」である。

 

手塚は昭和三九年に漫画集団の同人になったことは既に述べたとおりであり、「人間ども集まれ」の執筆中の四二年に、まんが旅行団の一員として、世界一周旅行に参加したことは、冒頭に述べた。こうして漫画集団の中堅として漫画界に、重きをなしていったのである

 

 一評論家の「集団」攻撃

 

そういう手塚にとって我慢のならない非難が、突如週刊誌に掲載された。

 それ「週刊大衆」(昭和四二年一二月二八日)に掲載された評論家、石子順造(石子順氏とは別人)の「風刺を忘れた“マンガ天国”の住人達」というレポートだ。

そこで石子順造は言う。

「青年層に今迎えられ、市民権を獲得した劇画、青年マンガは、大人マンガ、子供マンガにかかわらず、既成のマンガ家たちの老化と停滞に助けられた結果でもある。

青年マンガの明日への発展のためにも、子供、大人マンガ家の奮起を促したい。そしてその病因は、一つには、戦前からの大人マンガの主柱「漫画集団」と、二つには戦後マンガ界の最大の功労者の手塚治虫とそのプロダクションにあるゆえに、彼らに遠慮のない批判を向けるしかない」

まず漫画集団について、「戦争中、“鬼畜米英撃ちてし止まん”の好戦的マンガの力作を描いていた近藤らは、終戦のとき一時中断しただけですぐ一〇月には『新漫画派集団』の新と派の二字だけを解消し、『漫画集団』と名づけて再発足させる」

戦争中大政翼賛会の推薦を受けて、米英撃滅をの時局雑誌「漫画」を出していたが、その雑誌「漫画」も戦後発行を続けた。

そしてその「漫画」の編集にあたった近藤日出造について「つい数か月前までは熱心な戦争賛美者が、忽ち資本家と天皇制を皮肉る風刺マンガ家とはあまりに素直で単純すぎないか。常に権力の座にあるものを疑ってかかるマンガ家の特有の批判の目は、この戦中戦後のマンガ界の法王には無縁と映ったのだろうか」

と、近藤を罵倒している。

そして「戦後10年位して、戦争期を発展期とした体制を整え、マスジャーナリズムの主流の地歩をいっそう確実にした。」と書く。

「漫画集団」の中では、マンガを論じたり、デッサンの研究など行われることはなく、「先輩とのみに行くときは一銭もいらないといった親分子分の関係、と言って悪ければ心情的な党派性だけの結束。講和締結の時の近藤が読売、清水が朝日、横山が毎日の特派員として渡米したことでもわかるような「漫画集団」幹部たちのマスコミ界における隠然たる力――」

そして集団へ新たな新人の入会を決めるときは、「会員の全員賛成を得なければ入れないということを彼らは誇っているが、実際は主要幹部の寡頭独裁で決められ、運営体制はあまりにも家父長的な体制で、新人の意見などは一切受け付けない」と石子は決めつけている。

そして漫画集団が集団としてやっている事業は編集者を、箱根の忘年会に招待するぐらいなもので、その「漫画集団」の政治力は近藤、加藤、西川、小島らのイニシャチーブにより、日本漫画家協会の設立にまで及んでいる。

以上がこのレポートの前段であり、後段において児童漫画、手塚に虫プロに攻撃の刃を向けている。この後段の批判につては、いずれ、後ほど検討するとして、前段の、大人漫画、「漫画集団」に対する攻撃的な批判について考えてみよう。

 

手塚の逆襲

 

この漫画集団攻撃に対し、最初に反発の声を上げたのは、手塚治虫であった。翌年創刊したばかりの雑誌「COM」(昭和四三年二号)において、「石子順造氏への公開状」なる一文を掲載した。「COM」は説明するまでもなく、虫プロの版権部門を受け持つために新たに設立された虫プロ商事が発行する、手塚主導の新雑誌であった。

「石子さんは最近のまんが界について「風刺を忘れたマンガ天国の住人達」と題して次のような苦言を呈しています。

まず漫画集団が近藤日出造氏を中心とする一部の長老やエリートに支配され、どうにもならぬ動脈硬化におちいっている。保守、閉鎖的なグループであると決めつけている。次に虫プロと手塚治虫との関係に及んで、手塚の作家的なひとりよがりや、ワンマンが虫プロの企業に大いにわざわいしている、と断言しています。

私は正直言ってこの二つを読んで、ゲラゲラ笑ってしまいました。よくもこう、でたらめやデマゴギーを並べてもっともらしく書けたものだと、と、おかしいやら、憐れむやらでした。

中略

私は、あなたの指摘した、両方に関係がありますから申し上げるが、まず漫画集団のことについて、あなたが書かれた一部長老に牛耳られて云々の件は、お話にもならない事実無根です。

横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄、清水崑などの大先輩が、もう少し我々若手のまんが家のシリを叩いてほしいと思われるくらい、これらの大先輩たちは控えめで、若手も中堅も肩をたたきあってはげましあう楽しい雰囲気を作っています。外でアンチ集団という声が聞こえないこともないのですが、もちろん、その人たちが集団外で立派な仕事をすれば、よいのであって、集団には何のアカデミックな派閥や階級や排他的意識もない、要するに、実力の世界の一グループに過ぎないのです。

集団外の人が――たとえばかつての私が――集団にあこがれる、とすれば、それは権威に対してでもなんでもなく、ただメンバーのひとりひとりの実力への尊敬と、もう一つものの考え方や仕事の仕方が、はっきりおとなであるということへの尊敬に過ぎません。絵描きにはいい意味の世間知らずや、一人合点の人間が多くて――ことに子どもまんがや劇画には――そのために作品的にちっとも進歩しない例がうんとある。集団が自己を向上させる場であると個人がみとめればそれでいいのであって、他人がみてただの親睦団体だろうが、学究団体であろうが余計なお世話なのではないですか。というわけで、あなたの記事を読んだ集団の大方の意見としては、『こんなバカな相手は無視しよう』ということでした。無視されるとはどういうことか、あなたにおわかりでしょうか」

と手塚は厳しく、石子のいうことを撥ね退けている。

そのあと虫プロに関する石子の文章に反撃しているが、その件に関しては、先に述べたように、後章で述べることにする。

私は石子の集団批判に対する反撃の言葉はすなおに、肯定できると思っている。そして、この文章に中に、戦後の子供漫画の先駆者として、一人先頭をきって、走ってきた手塚が、味わってきた苦渋も、伺えるような気がする。

「のらくろ」や「冒険ダン吉」のような一回読み切りの漫画と全く違う、波乱にとんだ物語が号を追って続いて行く漫画手法を編み出し、しかもその物語の世界は古今東西、過去、現在、未来を覆う、別世界をきづき上げる壮大、無限の世界であった。

その作品は、「ジャングル大帝」、「リボンの騎士」、「鉄腕アトム」、「火の鳥」などなど、彼の描くものは、世の子供たちに熱狂的支持を受け、まるで創造神の如く、手塚は彼らの崇敬を受けてきた。手塚の拓いた道をその後に続く児童漫画家はたどり、そしてひろげて行ったのだった。

だから手塚は児童漫画の先頭を歩いてきたのであった。そして先頭を行くものの孤独、頼りなさが、手塚には付き纏っていたに違いない。彼には相談する友、教えを乞う先輩はいなかった。心の通ずる人がほしい、と手塚は思い募らせてきたに違いない。

それが漫画集団に入って初めて、その飢餓が、満たされたのであった。だからというわけでもなかろうが、手塚は集団の集まりや行事には、超多忙な身でありながら、必ず参加をしたのであった。

 

そういう手塚から見て、石子の集団に対する見解は、滑稽なくらい事実とかけ離れているわけである。少しも、石子の文章には、集団関係者に取材した形跡が見えない。

井上洋介の言葉などを記事に入れてあるが、私も、井上に原稿を依頼し、話もしたことがある。その経験から言って、彼は根っからの芸術家気質の人間で、漫画家というより芸術家といった感じの人であった。集団員でありながら、集団のことに全く関心を寄せることのない人であった。彼に集団のことを聞いても、何も真実はつかめないはずである。

そしてそういう集団員がいることも何ら問題にならない鷹揚さも、集団は持っていたのである。

だから石子は集団を論じながら、集団の取材を何もしてないに等しいのだ。

世の中には、マスコミに華やかに取り上げられる集団の行動や、集団員の名声に、嫉妬心を燃やした人は多い。とくに漫画家を志しながらつい世に認められず、半ば埋もれた人もいれば、ひと時は脚光を浴びたが、その後、新たな業績を上げられず悶々としている人、これから漫画を描こうとしているが、売り出す手口が見つからない人、そういう不遇な人はいつの世にもいるが、そう人たちの間に、おのずから形成される、華やかなマスコミの世界に対するコンプレックス、捻じ曲げられた共通意識のようなものが存在する。そのコンプレックスやひねくれた意識から醸成された様々な噂話や情報が、常に淀み、流れているものなのだ。

石子がその議論の根拠としている事柄は、これらの噂話や情報が元になっているとしか思えない。 

手塚は、それを知っているから、先の文章で、次のように言う。

「石子さん、

 あんたが昨年末に、或る週刊誌に書かれた記事――その大上段に振りかぶった刀は、かなり的をはずれたて、よこっとびに石へぶつかったような感じがします。あなたは、刀の使いかた知らなさすぎた――というよりずぶの素人だったことから起こった間違いでしょう。中略 もし本気だったとしたら、あなたはどうも、刃物を持つには、未成年過ぎたように思います。」

 手塚はこうも言っている。

「つまり結論的に、いって、私はあなたを評論家と思っていたのが、いつのまに、三流ゴシップ屋か経営コンサルタント氏になりさがったのかということです。まんが評論家は、まぁだれが考えたって、まんがの作品を評価するのが仕事です。その意味では、かつてのあなたの作品論は、いろいろ独善があるにしても文句を言わずにいただくことにしましょう。

しかしああいうのはいけません」

と、相当激しく切り返している。

石子の記事は、先の言ったようなゆがんだコンプレックスが元になった、漫画集団への誤解の典型的な例だといえよう。

当然石子の側からの反論は、発表された(「COM」68/6)。それを紹介すると同時に、当時手塚は漫画評論について、どう考えたいたのか。次号はそこから始めたいと思う。そのうえで、手塚の大人漫画の検討に入りたい。(続く)

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