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“10月11日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1945=昭和20年  GHQの検閲映画第一号の松竹映画『そよかぜ』が封切られた。

SKD松竹少女歌劇団員から抜擢された並木路子が歌った挿入歌の「リンゴの唄(歌)」が大ヒットした。作詞・サトウハチロー、作曲・万城目正で、ストーリーは劇場の照明係で歌手を目ざす並木を楽団のリーダー上原謙や楽団員の佐野周二らが励まし、やがて歌手として認められるという<スター誕生>もの。映画自体は酷評されたが並木が霧島昇とデュエットで吹き込んだこの曲のB面は<A面ソロ>で再プレスされた。

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空
  リンゴはなんにも いわないけれど
  リンゴの気持ちは よくわかる
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

レコードは数年間で50万枚を超えるヒットになったとされるが、あらゆる物資が欠乏し、配給制度による最低限の食料さえ途絶えがちな生活ではレコードや蓄音機も庶民には手が出なかった。空襲警報を聞くための必需品のラジオだけが残された娯楽源で、電波に乗って全国津々浦々まで届いた明るい曲はたちまち大人気となった。NHKの「のど自慢素人音楽会」の地方予選ではこの歌ばかりが氾濫して収拾がつかなくなったという裏話が残る。焼け跡・闇市に響いた「リンゴの唄」は生きるのに必死だった当時の人々に向けてのかけがえのない<応援歌>だったことは間違いない。

このころの一般サラリーマンの給料はわずか300円から500円程度だった。しかも激しいインフレ続きで食うのがやっと。闇市でリンゴは10円で3つ、歌の人気もあってすぐに2つに値上がりし1個が10円になったから庶民にはとんでもない高級品だった。リンゴへの渇望が皮肉られてという替え歌まで作られた。

  赤いリンゴの 露店の前で
  だまってみている 青い顔
  リンゴの値段は 知らないけれど
  リンゴのうまさは よくわかる
  リンゴ高いや 高いやリンゴ

*1947=昭和22年  東京地裁の山口良忠判事が栄養失調で死亡した。33歳だった。

山口は佐賀県出身。京都帝大大学院に進み高等文官試験司法科に合格して判事になった。1942=昭和17年に東京地裁に転任し戦後は経済事犯専任の判事になった。闇米取引などの違反を取り締まる立場だったから<法の番人>である自分は闇米に手を出してはいけないと思い詰めた。配給のほとんどは3歳と6歳の2人の子供に与え、自らは畑を耕して芋などを栽培したが体調は戻らなかった。しかし担当する100人の未決囚を待たせるわけにはいかないと休み返上で働き続け8月27日に職場で倒れた。

ようやく故郷の佐賀に帰省して療養したが肺浸潤を併発して容態が急変した。死の直前まで「食糧統制法は悪法であるが法律である以上、これに従わねばならない」と言い続けた。<悪法も法なり>である。山口の死を11月4日に朝日新聞が西部本社版の社会面トップで「食糧統制に死の抗議 われ判事の職にあり ヤミ買い出来ず 悲壮な決意綴る遺書」と4段抜きの大見出しで特報し、翌日東京版でも報じられ全国に衝撃を与えた。山口自身は送検されてきた人たちに同情的で情状酌量の猶予刑を下すことが多かったと伝わる。

遺書には「弁護士達から判検事までほとんどが皆ヤミの生活をされているのではあるまいか」などと同僚たちを批判する部分などもあり西部版と東京版で引用内容が違うなど<真贋論争>も起きた。しかも妻が遺書などはなかったと証言して記者の<自作説>もある。山口は日頃から妻に「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私は良い仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない。闇にかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信が持てないだろう。これからも私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない、死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい」と言い聞かせていたという。

都会ではわずかな配給がかろうじて人々の命をつないでいたこの時代、大映映画『或る夜の接吻』で奈良光枝が歌ってスターの座を獲得した主題歌の『悲しき口笛』(作詞・西条八十、作曲・古賀政男、昭和21年)は

  ひとり都の たそがれに
  思い哀しく 笛を吹く
  ああ 細くはかなき 竹笛なれど
  こめし願いを 君知るや

も「ああ 細くはかなき 配給なれど  飢えて死ぬのを 君知るや」と替え歌に。

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