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“2月5日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1937=昭和12年  大阪が生んだ将棋の鬼才・阪田三吉が木村義雄八段と初対局した。

村田英雄が西条八十作詞、船村徹作曲の『王将』で歌った伝説の将棋指しが阪田である。

  吹けば飛ぶような 将棋の駒に
  賭けた命を 笑わば笑え
  うまれ浪花の 八百八橋
  月も知ってる 俺らの意気地

阪田は1870=明治3年に大阪・堺で生まれだが青年期までの経歴は不明とされている。やぶれ長屋で女房と娘に掛けた苦労と引き換えに37歳で宿敵だった東京の関根金次郎を破り実力日本一になった。しかし関東大震災後、東京棋界再編の動きに不満と対抗意識を持った京阪神財界の推薦で「名人」を名乗ったことが<名人僭称>とされて中央棋界から追放処分にされてしまう。それがこの年ようやく和解になり現在の日本将棋連盟の前身の将棋大成会に復帰したばかりだった。対局できない不遇の長い期間を耐えに耐えてつかんだこのチャンスに68歳の阪田は人生のすべてを賭けて臨んだ。

注目の対局は底冷えの京都・南禅寺で行われた。まず先手の木村が18分の長考のあと7六歩、次いで阪田は12分後に右手をすっと出して9四歩。これは将棋史上、前代未聞の大奇手で周囲も驚愕した。表情には驚きをまったく出さなかった木村はここで56分の大長考に入る。のちの語り草になった「9四歩」で結局、勝負には敗れたものの「阪田三吉端歩を突いた」と大きな話題となった。翌3月には同じく京都・天龍寺で花田長太郎八段と対局、このときも「後手番、初手端歩突き」の奇策をとったが連敗した。このシーズン、阪田は「八段格」として名人戦挑戦者決定リーグに参加して7勝8敗の成績を上げたが引退してしまい2回の奇手については何も語らなかったから<永遠の謎>とされた。

織田作之助の小説『聴雨』には南禅寺での対局場面が心理の綾まで見事に描かれている。「端歩は<青春の手>だった」と。北条秀司原作の映画『王将』ではその山坂に富んだ人生が感動を呼んだ。阪田は生前「わしが死んだらきっと芝居や活動写真にしよりまっせ」と語ったという。その<読み筋>は当たっていた。「さらに歌のほうでも」といったらきっと驚くだろうし日本将棋連盟が1955=昭和30年に「名誉名人位」と「王将位」を贈ったのはそれこそ<望外の喜び>だったろう。

*1905=明治38年  広島市の横川-可部町間16キロに日本初の乗合自動車が開業した。

当時は大使館や公使館以外には民間の自動車所有が10台未満だったから東京や大阪ではなく、はるか西の都会・広島で、というのは特筆に値する。吉田真一という人物がアメリカで1台を買い付けて戻り旅客輸送を計画した。定員12人で所要時間はわずか40分だったから脅威に感じた乗合馬車業者や人力車組合などがさまざまな妨害を繰り広げた。

車両も一台だけだったから故障などで運休することも多くなり修理費用がかさんだこともあって9月に営業廃止に追い込まれた。

*1931=昭和6年  日本初のエアー・ガール=スチュワーデスの入社試験が行われた。

東京航空輸送会社が新聞に出した「エアー・ガールを求む。東京、下田間の定期航空旅客水上機に搭乗し、風景の説明や珈琲のサービスをするもの、容姿端麗なる方を求む。希望の方は2月5日午後2時、芝桜田本郷町飛行館4階へ」という募集広告に141人が集まった。面接にはオーストリアのレルヒから日本で初めてスキーを軍隊に導入したことで知られ、その後、民間航空の立ち上げに力を注いだ長岡外史中将らがあたった。

3月5日に3人が採用され、4月から乗務開始となったものの搭乗機は旅客6人の水上飛行機で狭く、そのうえ薄給だったため全員がひと月で辞めてしまいった。やむなく1回の飛行ごとに3円で再募集したところこんどは300人以上の応募者が殺到したとか。エアー・ガールは会社が頭をひねって考え出した<和製英語>で当時の新語となったが新聞は「空の麗人」とか「空中女給」と書いた。

*1877=明治10年  神戸―京都間の鉄道が開通、新駅舎が完成した京都駅で開業式典が行われた。

明治天皇を乗せた一番列車は午前8時40分、京都ステーション下りホームから力強く発車していった。「東寺の塔をおおいかくすばかりの黒い煙。鴨川堤をゆるがすほどの動輪の響き」と新聞が報じた。午後4時30分、無事帰着、当時の槇村知事が祝辞を述べたのに対して「御苦労であった」と勅答があった。

米15キロが37、8銭の時代、京都―大阪間の運賃は上等1円35銭、中等81銭、下等41銭で所要時間は1時間40分かかった。現在の新快速は30分だから隔世の感があります。

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