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私の手塚治虫 第24回   峯島正行

「ある街角の物語」の完成

虫プロの出発

一日おきの勤務、勤務時間は三時まで、昼食付、三時のおやつ支給。しかも、サラリーマンが足元にも及ばぬ高給で始まった手塚プロ動画部。これらの高待遇のもとはすべて、アニメーションの夢を実現すべく、夜昼もなく漫画を描き、稼ぎ貯めた手塚個人の財布から出ていた。それだけアニメーション制作に賭ける手塚の熱意は、燃え上がっていたといえよう。
手塚は、三時のおやつの時間から五時まで、漫画執筆を中断し、動画部にやってきた、第一作目と決めた「ある街角の物語」の絵コンテを書くためである。それが徐々にたまってくると、元東映動画の坂本雄作や、元横山隆一のオトギプロにいた山本暎一などのアニメーターが、それを補作して、完全な絵コンテにする作業を始めた。
絵コンテとは監督が、スク―リン上に展開するプランであり、製作スタッフへの作業指示でもあった。
手塚の描いてくる絵コンテは、完成したものではなく、手塚の意図が分るようにしただけのラフなもので、絵も説明も簡単なものであった。それを受け取った動画部の人は、完成された絵コンテに、まず仕上げねばならなかった。
絵コンテは、一カットごとに絵の構図、キャラクターの動き、背景を描きこんだ漫画の一コマのような絵が、二カット目、三カット目と縦に並んだ、こまわり漫画のようなものである。それぞれのカットの右側に、そのカットの秒数、セリフ、作画上の注文、撮影や音楽効果の注文、左側にシーン番号、カット番号を書きこんでゆく。
雑誌の漫画連載で、多忙を極める手塚は、三時を過ぎても、動画部に現れないことも多く、走り書きのメモ程度の、絵コンテを回してくることも多かった。動画部の人たちは、三時退社を止めて、一日おきの出勤も日勤に切り替えて、絵コンテ完成に、精を出すようになった。

九月になると、アニメ制作の現場となるスタジオ建設がスタートした。かねてから用意されていた手塚家に隣接する百坪ほどの土地が整備され、二千五百万円の予算で建築が始まった。建坪六十坪,二階建てである。動画部の人たちの意見を入れ、建物全体が、斜めの線を強調した、モダンな設計となった。
スタジオ名も、社の内外から募ったが、結局、手塚の案が通って、「虫プロダクション」に落ち着いた。
「虫」は自分の名前の虫であると同時に、アニメの虫という意味だと、手塚はスタッフに説明した。このスタジオの名前が、そのまま手塚プロから独立する、動画プロの名前となったわけである。
スタジオ建設の賑やかな音が響く中、一〇月になると、「ある街角の物語」の絵コンテは出来上がり、いよいよ原画を書き出すことになった。原画とはアニメの動きのもとになる画のことである。

永遠の手工業?

ここで、動画制作の行程を前出、山本暎一氏の「虫プロ興亡記」、豊田有恒氏の日本SFアニメ創世記」(二〇〇〇年、TBS・ブリタニカ)等によって、簡単に述べて置く。
新しく動画を制作する場合は、まずシナリオライターがシナリオを描く。それによって、先に述べたように演出家が絵コンテを制作する。
絵コンテが出来上がると、原画家(アニメーター)が、アニメーションの動きのもとになるキャラクターの絵を描く。アニメは、この原画をもとにして、一秒間につき、二四コマの少しずつ形のずれた画面からできている。それをつぎつぎとパッパッパと見せられると、目の残像で、画が動いて見える。
その絵を動画という。それを描く人が動画家と呼ばれる。
実際には一秒間に二四枚の動画ではなく、一二枚の動画で済ませている場合が多い。一枚の画で二コマ撮影しても、かなりなめらかな動きが見えるからだ。
そうすると、5秒間のカットだと、六〇枚の動画が必要で、三〇秒の場面だと動画の数は三百六〇枚必要になる。その一つ一つのカットの最初と最後の画が原画である。
つまり、原画家の描いた原画の間を、原画家と相談しながら,動画家がうめてゆき、一カットが出来上がる。
こうして、一カットの動画が出来上がると、それを仕上げ(トレース部)と背景(美術部)に回される。トレース部は画用紙に描かれたキャラクターを、セルと呼ばれる透明のアセテート版に、画の線をなぞって写してゆく。現在はこの作業は、コピー機によって簡略化されている。
そうして写し取ったものに色を塗る。白黒アニメの場合も、色の濃淡があるので、それを塗り分ける。
美術部は、回されてきたキャラクターの画の背景を描く。
以上が出来上がると、撮影部に送られる。撮影部では、カメラの下に背景をセットし、背景の上に、さっきのセルを重ねる。すると、キャラクターの部分は色が塗られているので、背景が隠れ、それ以外のところは、透明なので、背景が見えるというわけである。このセルを一枚一枚取り替えながら、一枚ずつシャッターを切ってゆく。
撮影の終わったフィルムは、現像所に持ち込まれ、ポジフィルムになる。これをラッシュと言い、これによって録音や編集作業をする。このラッシュを映写機にかけて、画の動きや撮影効果が、意図通りに出来ているか、スクーリンのうえで確認する。良ければそのカットは出来上がり、駄目な場合はリテーク、つまり最初から作り直しとなる。そうしてすべてのカットが出そろったときに、一本のフィルムの完成となる。
以上、簡単に述べたが、実際に、アニメが出来上がるまでには、大変な労力と人手を要するわけである。特に最初の動画制作までは、膨大な人手と時間を要する。これは動画が絵で描かれている以上、人の手で描くほかに、方法がないためである。
つまり事業としては、合理化の余地がきわめて少ない。絵を動かして物語を作るアニメは、機械化できない、永遠の手工業なのである。そこに手塚たちの創作家としての誇りもあるわけだが、事業としては、弱点でもあるわけだ。
このことが、アニメ・プロダクションの経営を困難にさせる要因であり、のちの虫プロの破綻の最大原因もここにあったと言えよう。

「鉄腕アトム」のテレビ化

しかし、虫プロの第一作で、虫プロの旗揚げを天下に知らしめる烽火にしようと手塚がもくろむ、芸術的実験作品「ある街角の物語」は、手塚の稼ぎをつぎ込んで、丁寧に作られていった。その年、昭和三六年の秋も深まる頃、原画作りからその後の作業も着々と進んでいた。人員も最初の四名から、徐々に増えて一五人になった。
意気揚々のうちに、その年も暮れ、新年を迎えた。手塚は虫プロを、手塚プロから独立させ、「株式会社虫プロダクション」を設立。資本金二百万円、全額手塚が出資、そして自ら取締役社長となった。手塚プロのマネージャだった山下が、虫プロ専務取締役を兼務した。このことは内外に、アニメーション制作に本腰を入れるという、彼の明確な宣言であった。
虫プロの内部では「ある街角の物語」に次ぐ、第二作制作が話題になっていた。手塚の理想のアニメを作ってゆくために、大衆的なアニメを造り、その売り上げと利益によって、その製作費を出してゆくというのが、手塚の描いた虫プロの将来像であったから、当然、第二作は、大衆的な興味を呼ぶ作品でなければならない。
虫プロの実質チーフアニメ-ターの立場になった、坂本を中心に、如何にして、金を稼げるアニメーションを作るか、論議を始めた。
彼らの頭に、ふと浮かんだのはテレビにアニメ番組をのせることだった。考えてみれば、日本で作られた本格的アニメが、テレビで放映されたことはない。そこに漫画アニメを流すようにしたら、必ず評判になるはずだ、と彼等は考えたのであった。
テレビでアニメをやるとしたら、一回限りで終わるものでは意味がない。一話一回の長編連続でなければ意味がない。しかし長編となると、膨大な資金と人員を要する。
アニメ映画の先駆的存在である東映動画では、一時間半の長編を一本作るのに、三百五十人のスタッフ、六,七千万円の製作費で、一年、二年という時間をかけて、制作している。
ディズニーや東映の作っているフル・アニメーションは、一秒に、十二枚の動画を使っている。これだと画面が滑らかに動く。これをテレビでやるとして、三十分番組だと、コマーシャルなどを抜いた本編の正味を二十五分間と考えると、動画枚数は一万八千枚必要となる計算である。毎週それだけの動画が出来るわけはない。もしやるとすると、数百人規模の動画家が必要になる。
アメリカでは、ディズニーのフル・アニメーションに対して、リミテッド・アニメーションという方式を編み出した。或るプロダクションがこの方式で漫画番組を作り出し、それが日本でも、関心を呼んだが、それは粗っぽくて、単純な四コマ漫画程度のものであったので、評判が悪かった。
虫プロの内部では、フル・アニメーションほど滑らかに絵が動かなくても、毎週完結する面白いストーリーがあれば、画はそう動かなくても、視聴者をひきつけることが出来のではないか、と考えたのだ。
「その原作者は、手塚治虫。その作品は鉄腕アトム!」
期せずして、彼等の口から、異口同音に、声がほとばしった。一番身近に原作の候補があったのだ。
それを一回正味、二五分の番組として、動画の枚数をどこまで縮められるか、改めて計算すると、原画一枚当たり一八コマ撮り、にすれば何とかなるという話になった。初めから終わりまで、一八コマ撮りにするのではなく、ある部分は二コマ撮りにして、滑らかに動かし、ある部分は五秒止めのカットを造るなどすれば、平均一回に、二千枚以下の動画ですむという計算をたてた。

一本、二千枚の動画

「鉄腕アトム」アニメ化案を手塚治虫へ提案するや、端からテレビアニメへの挑戦を考えていた手塚は直ちに、OKを出した。ただし、毎週放映、毎週一本ずつ制作となると、一本につき二千枚の動画では、労力的にも制作費から言っても、出来ないということになった。
手塚は、動画枚数をさらに減らして、千五百枚から千八百枚に抑えることにした。その為、手塚とアニメーターたちとの試行錯誤の結果、絵コンテで、動画枚数を食わない演技の工夫をすることにした。アニメーターの熟練度の必要なフル・アニメーション技法を捨て、絵心のあるものならば、誰でもできるような優しい技法も同時に研究した。
その結果、簡単で、動画枚数を減らせられるパターンが出来上がった。それは以下のような製作法だった。

1、 一枚の動画を三コマに撮る。
2、 キャラクターの顔のアップなど、動かさなくても、そうおかしくはないものは、動画一枚で済ます。
3、 歩いたり、走ったりするキャラクターの動きは、繰り返しの動画にして、背景の方をスライドさせる。
4、 人物が腕を振り上げたりする場合、顔と体は止めて、腕だけを部分的に動かす。
5、 セリフをしゃべる場合は、体を動かさず、口だけをパクパク動かす
其の他数項目の原則を基本にして、そのバリエーションで、動きのすべてを作り出すことにした。

手塚は、実際の仕事が始まってからさらに、現実的な方法を発案し実行した。手塚は、自ら次のように書き残している・
「『アトム』の絵がたまってくると、それを整理分類して積んでおき、同じ絵を何回も繰り返し使った。これはバンク・システムと名付けた方法で、(中略) バンクはつまり銀行であって、まあ、絵の銀行だ。アトムとか、お茶の水博士とか、ヒゲオヤジとかを別々に分類するだけではない。アトムならアトムの怒り、泣き、驚きなどの表情から、大写し、全身、遠景などに分け、はては手とか足とか口とか眼だけを別々に描いて分類した。自然現象の雨、風、雪や波、煙、噴火、崖崩れ、武器、各動物、乗り物、目を回した時出る星までナンバーを入れて分類した。これらを整理するスタッフは、毎週一回、ドサッと山のごとく持ち込まれる使用済みの新しい絵を悲鳴を上げながらより分けるのである」(ぼくはマンガ家、大和書房、一九七九年)

手塚は虫プロの内部を、テレビと映画部に分けた。テレビ部は今皆が考えている「鉄腕アトム」のような商業性に徹したもうかる仕事をする。映画部は、テレビ部のもうけた金で、「ある街角の物語」のような実験作品を作る。一番経験が多い坂本が、アニメーター全員のチーフになるとともに、テレビ部のチーフになり、映画部のチーフには、山本がなった。それぞれのスタッフは、映画部、テレビ部と固定せず、状況に応じて流動的に働くことに決めたのである。

穴見薫の売り込み

四月、スタジオが完成した。白塗りの瀟洒な建物である。虫プロのスタッフはそこに引っ越した。二階の大広間に、原画、動画、仕上げ、背景などの絵を描く連中が入った。二回の新人募集で、手塚や今井専務を除いて、スタッフの数は三八人に増加した。
五月。
虫プロの坂本が、一人の男を手塚のもとに、連れてきた。男の名は穴見薫。六尺豊かな大男、大手広告代理店、「萬年社」の企画部員だという。
この男が坂本と知り合ったのは、穴見の妻君が、東映動画では、名の知られたアニメーターであった関係からであった。東大在学中、学徒出陣、特攻隊員になったが、終戦で復員、一時新劇の仕事をした後、現在の仕事についたという。虫プロで、テレビアニメの企画を立てると聞いて、坂本に自らを売り込んで来たのだ。
テレビアニメを実現するには、広告代理店を通じ、製作者、テレビ局、スポンサーと結びつけなければならないことを知っていた坂本は、虫プロの仲間と共に、彼に会って、話を聞き、その熱意とテレビアニメへの夢を知り、手塚に紹介したのであった。
穴見は手塚に対して以下のように、必死な形相になって口説いたらしい。
「あなたたちの志を実現するためには、 テレビ局、スポンサー、広告代理店等、放送を構成する関係者たちへの啓蒙、説得、組織化がまず必要になります。これはかなりな大仕事です」
と述べ、自分がその業務に携わる広告代理店の役割について述べ立てた。広告代理店は単に、スポンサーとテレビ局の間に立って、放送料のマージンを稼ぐだけでなく、手塚らのやっているような、新しい仕事を成功させるのが使命である、と説いたのである。
「私は一広告代理店の社員ではなく、自分個人として、先生がなさろうとしている、前人未到の事業に参画させて頂きたい。私はみなさんの一員として自分の所属する萬年社を説得するとこから開拓を始めてみたい、ぜひそうさせてください」
大男の元特攻隊員が、必死の形相で、手塚に迫ったようだ。漫画作家である手塚は、テレビ用のアニメを作ろうとしているが、如何に売るかというビジネスの方面には、疎いし、作ることに夢中であったが、売る方法まで頭が回っていなかったのだ。
手塚はこの男の言を入れた。この時、その手腕は別として、穴見の言に嘘はなく、その誠実さも本物であったろう。手塚が彼を受け入れた後、もう虫プロの一員のように出入りしだした。
彼はその翌年に、虫プロの常務取締
役となり、この新しい企業の経営に当たるのであったが、私には、彼にその手腕があったとは思えないのだ。
彼はこうして、「鉄腕アトム」の制作販売に当たるのだが、その契約の時期とか、制作の方法を確立しないまま、アトムの放映を決めてしまったために、虫プロ全体が苦労するのである。私は中堅広告会社、萬年社の一社員にすぎないものが、野心に駆られて、虫プロの中に、会社経営のセンスのあるものがいないのを幸いに、この会社を牛耳ろうとしたために、虫プロの生存にさえ、影響を与えたと、思われるのである。いずれ、そのことは、おいおい述べてゆく。

ヤマハホールの発表会

夏に入って、映画部の努力の甲斐あって「街角の物語」の作業が進んで、秋にはどうやら、出来上がる見通しが立つようになった。手塚はスタッフを集めて、「アトム」の制作開始の宣言をした。
「アトムは僕の原作だから最初の何本かは、ボクが演出と原画はやります。慣れたところで、諸君にも演出、原画を描いていただきます」
といい、山本、今野など3人が「街角の物語」に集中し、他のスタッフは、手塚が書く原画をもとに、動画を描くことにした。仕上げや背景のスタッフは、両方の作品に共通とした。スタッフの数は、前述のように新旧三十八人である。その人たちの役割りは原画六、動画六、仕上げ一四、背景五、撮影四、制作進行二、総務一に割り振った。
これだけの人数で「街角」という実験作品と、毎週三十分のテレビアニメ、「アトム」を作って行こうというのである。それが出来るか、最初から疑問だった。「アトム」の場合、先に述べた通り、節約しても一週に二千枚近くの動画を要するのだ。そこが問題なのだが、ともかく発進した。
しばらくすると手塚の描いた「ァトム」の原画が三,四カット分が、テレビ部に届けられた。どうやら疾走する自動車のフロントからの眺めらしい。それから、原画は毎日、数カットずつ届けられて、一人の少年が、未来型車をぶっとばし、交通事故を起こすところまで、進んだ。そこに手塚が絵の説明といかなるカットにするか、を説明にやってきた。
漫画の執筆に追い立てられている手塚からは、そのようにポツリポツリとしか原画がでてこない。それを、ベテランの原画家が動画に描くのだから、すぐ消化してしまう。
二週間たっても、いくらも上がってこない。それを誰かかが口にすると「先生から原画が来ないのだからしようがない」
と原画部門の坂本が答えざるを得ない。現実に、テレビで放映されるようになったら、一週間のうちに原画と動画が上がらないと、放送に穴があく。しかも、一本の動画が二千枚近くになる。それを一週間で上げなければならない。それが出来るか、スタッフ全員が危惧していた。

秋も深まると、「ある街角」の方は作画作業をすべて終えて、最後の編集を終えると,長さが、三八分五二秒の中編作品になった。手塚は音楽を高井達雄に、効果音を制作グループに渡し、制作完了となった。手塚は十一月六日に、銀座のヤマハホールを借りて、「虫プロダクション第1回作品発表会」という名のもとに、試写会を開くことに決めた。
その発表会は、各方面の話題を呼び、当日は大盛況であった。
そして「街角」は、その年の「芸術祭奨励賞」を獲得し、続いて、「ブルリボン賞」「毎日映画コンクール大賞」を獲得した。
いまや手塚は、アニメーションの新しい旗手として、日本最初の芸術的なアニメ作家として、輝かしい日を迎えたのである。幼い時からの夢が見事に実ったといえよう。
手塚は、一年の日時と、一二〇〇万円の製作費がかかったと述べているが、この金額は、人気漫画家として、多くの連載漫画を抱え、締め切りに追われ、雑誌編集者からは、手塚嘘虫(うそむし)、手塚遅虫(おそむし)とよばれながら、悪戦苦闘の末、作り上げた金であった。またアニメの制作時間は、漫画執筆の間に、そっと抜け出して作った短い時間を重ねて作った時間であった。
この後、テレビアニメの「鉄腕アトム」の制作には、さらなる難関を続けて越えなければならなかった。(続く)

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