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書斎の漂着本 (79) 蚤野久蔵 どろんろん

「最後の忍者」と呼ばれた甲賀流忍術十四世・藤田西湖の『どろんろん』(日本週報社)が書庫の奥から見つかった。「これぞまさに<本隠れ>の術!」とつぶやいてはみたが、本が隠れるわけはないので単に整理が悪いだけ。三重県伊賀市で活動する「伊賀忍者研究会」に忍者関係の蔵書を差し上げる約束をしたので探しているところだった。

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藤田家は代々、徳川幕府に仕えた隠密で、甲賀流53家のうち、六大名といわれた和田伊賀守の家系という。「著者紹介」には、明治32年8月13日東京浅草生まれ。6歳の時、兄の仇討ちのため11名を傷つけ、寺に預けられたが、後寺から放逐、修験道行者について修行。7歳の秋、千里眼能力者として福来博士(福来=ふくらい友吉・東京帝大教授)に見出された。その後、甲賀流忍術十三世の祖父並びに南蛮殺倒流二世橋本一夫斎等につき拳法、柔術、剣術、槍術、長刀、棒、十手、捕縄、手裏剣術などの武芸を学ぶほかそれぞれの師匠につき茶道、生花、音曲、舞踊、書画、彫刻を学んだ。大正3年早実卒後、早大、中大、明大に学んだがみな乱暴のため放校。同8年、日大宗教科卒業その間、報知、日日、やまと、国民、中外等の新聞記者をはじめ、柔道、剣道等の師範を兼ねる。大正13年から陸軍戸山学校、陸士、陸大、海大などの教授を歴任、現在甲賀流忍術十四世、南蛮殺倒流第三世、心月流手裏剣術、大円流杖術、一伝流捕手術師範、日本空手道会顧問、日本古武道振興会常任理事、武術研究所長に任ず。現住所、東京都文京区根津須賀町××とある。

6歳で「兄の仇討」、しかも寺は「放逐」、大学は「乱暴のため放校」などとあってなかなかの経歴であるが、ていねいに引いたのは武芸百般に通じていることを手っ取り早く紹介したかったから。陸軍戸山学校は諜報員養成機関、中野学校の前身である後方勤務員養成所が置かれたところで、教授として忍術を講義していたというのもおもしろい。住所も番地までは伏せておくが、堂々と紹介しているのも「来るなら来い!」と言わんばかり。手元にあるのは昭和33年11月28日発行の8版。わずか1か月前に発行されているので某出版社の広告ではないが「好評、たちまち8版!」である。

兄の仇討というのはこうだ。隣町へ用足しに行った兄が帰り道で悪童連中に取り囲まれてなぐられ、血だらけになって帰ってきた。これを見て自宅にあった警視庁巡査の父親のサーベルを持ち出した。原っぱで遊んでいた小学校6年から高等小学校の14、5歳までの子らはサーベルを見て逃げたのを追いかけ、それを振り回したから当たった11人が軽いけがをした。それが見出しになった「六歳で十一人を斬る事件」である。その後、手に負えないということで五日市の寺に預けられたが住職の留守に悪童連を本堂に連れ込んで木魚や鐘、太鼓を叩かせた。いたずらはますますエスカレートし、廊下に蝋を塗って坊さんたちを滑らせるわ、お供えの代わりに馬糞をのせるわ、葬儀の最中に花火を鳴らすなどしてとうとう「放逐」となった。

祖父から忍術を学び始めたのは寺から放逐された直後に家出し、大峰山の山伏に押し掛け修行して連れ戻された6歳の年である。忍術は一に正直、第二に頭脳の鋭敏、第三に身体の敏捷が必要とされるが、それ以上にもって生まれた「素質」が問われるからわが子といえども後継ぎをさせない。警察官だった父親も、スリの大親分の仕立屋銀次や出刃亀を捕まえた名刑事だったが継がせてもらえなかった。修行は整息術から始め、歩行術、といってもつま先歩きを数時間となると想像を絶する。この整息術と歩行訓練、素読と習字を1時間ずつやって午前中が終わると午後は指を砂に突っ込む。砂はやがて小石、粘土と変わり、文字通り「血のにじむ」毎日で、飛び級で2年に進級した小学校では校庭の朝礼に並ぶのに2階からいきなり飛び降りて全校生から一目置かれた。これは序の口で、小、中、高校とけんか相手を求めて他校に遠征する毎日だった。黒板に書かれた試験問題が光って見えないと言ったのに取り合わなかった教授を軽くポカリとやったら気絶したという事件で同時に籍のあった大学も「放校」となったというのも<軽くポカリ>もとんでもない威力だったからだ。

新聞記者時代の大スクープは当時「生き神様」と言われた教祖の正体を突き止めた話だ。教祖は自ら梵名をアウンバラマと称し、雑司ヶ谷に広壮な屋敷を構えていた。評判が高くなると全国からいろいろな人間が集まってくる。そのなかで一番<信仰=お金>のありそうな人物には、フッと口から「仏舎利」を吐いて「ホウ、お前には仏の加護があるぞ」といって用意してあった桐箱に入れて渡す。貰ったほうは感激してありったけのお金を奉納していく。中でも得意としていたのが5年先、10年先を<正確無比に予言する>ことで、政治家や実業家にも信者が多く、屋敷には毎日多くの来客が詰め掛けた。教祖は朝寝坊で10時頃になってようやく応接間に姿を現す。紫の衣、ダイヤモンドを散りばめた金の冠をかぶって傲然と構え、ことあるごとに「われは如来、仏陀の化身なり」と口にした。応接間では朝の決まりとして毎日の新聞記事が話題になったが、たとえば伊藤博文がハルピンで狙撃されたという記事が出れば「ははあ、伊藤はやはりやられたか」と大きくうなずいて、書生に「おい、5年前の日記を持って来い」と命じる。書生が分厚い日記帳をうやうやしく捧げてくると教祖は無造作にそれを受け取って、まず年号を調べる。表紙にはちゃんと「明治三十七年日記」と書かれている。それを皆に示して十月の欄を繰ると「それ、この通り書いてある。・・・伊藤公の寿命はあと5年ならん。すなわち明治四十二年十月二十六日午前九時、外地に於いて兇変に倒れるべし。どうじゃ、まさにこの通りであろう」。

中野学校での担当は精神教育と家伝の甲賀流忍術を現代戦に活かす術科で、「忍術の忍は忍耐の忍である」から始まる精神論を中心に教えた。各生徒の教科はわずか半年間ずつなので本当の意味での忍術を教えるには短すぎたが、敵中潜入術、金庫の開け方、手錠の外し方から南蛮殺倒流の武術、毒物利用の細かな方法まで伝授したと書いている。戦後は日本空手道会顧問、日本古武道振興会常任理事、武術研究所長などで活躍し、昭和41年、65歳で没した。藤田が収集した膨大な古文献や資料は小田原市に寄贈され、小田原市立図書館に「藤田西湖文庫」として収蔵されていて武道史研究家に活用されている。

いきなり中野学校の話に<飛んだ>ので「あれっ」と思われたかもしれないが、もちろんこちらは忍術ではない。もったいぶっただけであるからご安心を。

藤田記者は三日がかりで教祖邸の構造を調べ上げた。昼間は出入りの御用聞きに小金を握らせ、夜は邸内に忍び込んだ。庭には大きな犬二匹が放し飼いにされていたが造作なく手なずける。わかったのは秘書・書生が13人、女中が5人、事務をとる年輩の男が2人、寝室に侍る女が2人もいることや、家の構造は正面玄関、内玄関とあって部屋数は大小19室。教祖の居室は一番奥、庭に面した12畳のようだった。教祖は午後になると秘書1人、書生2人を連れて外出する。「往診」として実業家や政治家を訪ね、帰宅は毎日深夜になった。そこまでわかると忍具をつけて文字通りの「潜入取材」を決行した。書斎には30冊ほどの日記帳が並んでいたが、現在のも前年のも<予言>めいたことはいっさい書いていない。黒インクで書かれ余白が残してあるだけだ。金庫には札束などざっと30万円、当時は一生で1万円貯めたら大成功の部類とされていたからとんでもない大金だった。中仕切の上段に黄色い半透明の小石がたくさん入った小箱があり、これが商売のタネの「仏舎利」のようだった。もちろん金庫は元のままにして天井裏に潜んだ。キリで天井に穴を開けての監視が始まった。

すると毎夜、添い寝する女たちと痴態のかぎりをつくした教祖は意外に早起きだった。朝寝坊といわれていたのに反し、寝間着姿で玄関の新聞受けに向かうと新聞を抜き取り書斎へ。ここで全ての新聞に目を通すとある年の日記帳を取り出し、何かを書きつけて再び新聞受けに新聞を戻して帰って来た。

ここまで書いたらもうおわかりだろう。教祖の予言とは、新聞に書かれていた事実をそのまま転記しただけだったのである。だから変色しない黒インクが使われた。彼は若いころドサ廻りの奇術師の一座に加わっていたから、手先が器用で、仏舎利のほうはマジシャンが口からトランプを出すご存知のテクニックを応用したものだった。藤田記者は5日間の連載を書きまくったから<正体>をすっぱ抜かれた教祖は夜逃げを計画していたところを警察に詐欺罪で牢獄にぶち込まれた。

藤田は50年にわたり<表看板>としてきた忍術について「チャンバラ映画や大衆小説、少年漫画にまで大いに進出しているが、その全部が全部と言っていいほど荒唐無稽な無責任きわまる作り話で本来の忍術を誤るものである。忍術ほど科学的で進歩的なものはなく、しかも武芸百般を総合し、精神と肉体の練磨において、このくらい厳しいものはないのであって、私は忍術こそ武術中の武術なりと信ずるものである」と結んでいる。

ところでこれらの蔵書を差し上げる約束をしたのは伊賀のほうと書いた。流派が違うのでは、という心配には及ばない。伊賀と甲賀は映画や小説では激しく争うのが決まりだが、最近はさまざまな「地域おこしイベント」で協力し合っているそうなので、役立てていただければ幸いである。現代の忍者を目ざす皆さんのご健闘を祈る!どろんろん・・・

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