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新・気まぐれ読書日記(33) 石山文也 京都ぎらい

朝日新書の『京都ぎらい』(井上章一、朝日新聞出版)が異例ともいえる版を重ねている。しかも、ここまではっきりと「京都が嫌い!」と題名にうたった本は初めてではあるまいか、いや、初めてに間違いない!と自称・京都本ウォッチャーの私が<断言>する。私自身も長年、京都の町に親しんできたし、いわゆる「京都本」のたぐいはついつい買ってしまう。買わないまでも何が書かれているかは調べておくことにしている。ある年は、ビジネス用に『京都手帳』を使っていたぐらいだ。もっとも自称のほうは、他人からとやかく言われる筋合いはないけれど、帯にあるように「千年の古都」なので京都が好きか嫌いかと問われると、そこは「まあ、好きです!」と答えることで好き嫌いの旗色はとりあえず抑えておく<京都になじもう>とする習性だけは身についた。

井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)

井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)

井上は現在、日文研=国際日本文化研究センターの教授で副所長をつとめる。経歴紹介にある著書は『霊柩車の誕生』や『美人論』などをはじめとしてほとんど読んできたし、講演会でも京都市出身と聞いた記憶があるのに、そこには「京都府出身」とある。たしかに行政区分でいうと京都府京都市であって、京都市も京都府に含まれているがどういうことなのか。

私が生まれたのは、右京区の花園、妙心寺のすぐ南側である。そして、五歳の時に、同じ右京区の嵯峨、清涼寺釈迦堂の西側へひっこした。その後、二十年ほどは、嵯峨ですごしている。私には、嵯峨の子としてそだったという、強い自意識がある。花園も嵯峨も、右京区にくみこまれている。行政的には、京都市にぞくするエリアである。京都市に生まれ、そしてそだったという自己紹介に、いつわりはない。なぜ、そう書くことに、ためらいをおぼえるのか。京都以外の人々は、なかなかピンとこないかもしれない。だが、京都の街中、洛中でくらす人々なら、すぐに了解するだろう。井上は嵯峨そだちだったのか、京都の人じゃあなかったんだな、と。(「京都市か、京都府か」)

おわかりだろうか。井上のいう「洛中」を分かりやすく解説するといわゆる「碁盤目のなか」で下京、中京、上京区をさす。しかも上京区でも西陣は違うというのだ。国立民族学博物館の初代館長だった梅棹忠夫発案という全国の方言を紹介する「方言・桃太郎」装置に対する中京の新町御池で生まれ育った男の返答がこちら。
「京都を西陣のやつが代表しとるんか。西陣ふぜいのくせに、えらい生意気なんやな」西陣あたりがえらそうにふるまうのは、かたはらいたいと言う。いやはや、京都はこわい街である。(同)

中京の老舗の令嬢という30代の独身女性は酒席でこんな話をしたという。
「とうとう、山科の男から(縁談の)話があったんや。もう、かんにんしてほしいわ」
「山科の何があかんのですか」
「そやかて、山科なんかに行ったら、東山が西のほうに見えてしまうやないの」(「山科もきらわれて」)

所帯を持ってからの井上は、宇治に居を構えている。京都から東南に半時間、あの国宝・鳳凰堂の平等院で有名な町である。つまり宇治市民であるから、
宇治の分際で、京都を名のるな。身の程を、わきまえよ。そんな京都人たちの怒号を耳にして、私は心に誓っている。金輪際、京都人であるかのようにふるまうことは、すまい。嵯峨そだちで宇治在住、洛外の民として自分の生涯はおえよう、と。(「宇治もまた、ゆるされず」)

ブラジル・リオデジャネイロの大学にある日本語学科で日本文化を教えに行ったときには仕方なく「京都からきました」と自己紹介した。
このくだりを読んで、しゃらくさいと感じる洛中棲息者は、いるだろう。嵯峨そだちで宇治ずまいやのに、ブラジルでは京都の人になりすまさはったんですか。そら、あんな遠いとこまでいったら、ばれる気づかいはおへんわな。ひとときでも、京都からきたと言えて、御気分もよろしおしたやろ。以上のような皮肉を想いつくだろう京都人の姿も、私の脳裏をよぎらないわけではない。(「“KIOTO”がしめすもの」)

ところがこの自己紹介は、しばしばほほえみとともに受け止められた。なぜか。リオにはゴキブリやシロアリを専門にする「KIOTO」という害虫駆除の会社があり、街中の至る所でこのロゴが車体に書かれた車を目にする。自己紹介が笑いを誘ったのはそのせいかもしれないと、ようやく一矢をむくいる。ここまで読んできたら、「京都ぎらい」の井上のペースに乗ってしまう。
「お坊さんと舞子さん」、「仏教のある側面」では連綿と続く京都と宗教を。「皇居という名の行在所」、「京都をささえた江戸幕府」、「江戸と京都の建設事情」では歴史の中から京都と江戸・東京を対比させる。

冒頭に書いた自称・京都本ウォッチャーの私から「ここから読み始めては」と思わず勧めたくなるのが「あとがき」の、七は「ひち」である、という話である。
七五三という言葉を、私は「ひちごさん」と読む。「しちごさん」とは、まず言わない。私にとって、七は「ひち」であり、「しち」は不快にひびく。(中略)京都には七の字をふくむ地名が、いくつかある。七条、七本松、上七軒などである。それぞれ、地元の人々は「ひちじょう」、「ひちほんまつ」、「かみひちけん」とよぶ。七条に関しては「ひっちょう」という古い世代も、いなくはない。

この本で京都洛中の悪口を書いている。洛外で生まれ育った私の、洛中になじめぬ部分を、あげつらってきた。しかし、七の読みに関しては、価値観をわかちあうことができる。この点だけは京都人にあゆみよれる。私は七を「ひち」と読むだけの連帯感が、かぼそいことをわきまえている。まあ、私なんかにすりよられた洛中の人々はめいわくがるような気もするが。
といってあげたのが地名の上七軒である。本文中のあるページに書いた上七軒に初校の校正刷りでは「かみしちけん」とルビがふられてきた。東京で仕事をする校閲者は、やはり「しち」としか読まないようであるとは思ったものの、井上は最後まで抵抗した。かつて朝日新聞社から本を出した時には書籍編集部からすべて「しち」で統一されてしまったという苦い経験を持つ。後裔の朝日新聞出版からも同じように「しち」を押し付けられそうになって「それならルビなしでもいい」と<譲歩>はしたが、さて。私はその結末に思わずにやりとした、とだけ書いておく。

ではまた

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