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池内 紀の旅みやげ (36) 祭礼指南─浅草・鷲神社一の酉

以前、わが文源庫の月刊誌「遊歩人」に『祭りの季節』を連載した。たしか三年間つづけたと思う。それまで十数年にわたって訪れた全国の祭礼から、三十いくつかを選んで綴ったもので、のちに写真を加えて本になった。(みすず書房・二〇一〇年刊)

そんなわけで、祭りに対してはわりとくわしいし、一家言めいたものがある。ためしにあげていくと、

その一、「近くに泊まれ」

祭礼は神社の寺のことが多い。なるたけ催される近くに宿をとって、一泊二日をあてる。祭りが三日も四日もつづくときは、最終日をあてて同じく二日がかり。泊まりがけだと祭りの夜が楽しいし、一夜明けて宴のあとを見聞できる。

浅草・鷲(おおとり)神社は酉(とり)の市で知られている。今年(二〇一三)は十一月三十日が一の酉で、二の酉、三の酉とつづいた。三の酉がある年は「火事が多い」なんてことをいう。

JRと地下鉄の利用となると、わが家からだと約一時間だが、原則どおり宿をとった。祝日と酉の市がかさなり、ホテルがとりにくいだろうと思うのは素人考えである。当日の午前中に、めぼしいホテルに電話を入れると、きっとキャンセルがあって、一つぐらいは見つかるものだ。

近くのホテルだから、もう祭礼の場に着いたも同然である。夕方ホテルに入り、シャワーをあびて着替えをする。身軽になって、荷物類はそっくりのこしていけるのだ。祭り見物のあとはイッパイやりたいもので、夜ふけに電車を乗り継いで帰らなくてもいいのだから、心おきなく吞める。

その二、「出口から入れ」

これは説明しないとわからない。鷲神社のケースでいうと、夕方から参詣の人の長い列ができる。参道入口から二手に分かれ、太い人間の帯が歩道をうめてうねうねとのび、警官が厳しく見張っていて、列は遅々として進まない。なんでも「三時間待ち」だとか。

来る年の福をかき集める熊手はやはり大きい方がいいのかしら。あんまり欲をかいても、なんだか浅ましいけど、やっぱり気負ってしまうのかしら。

来る年の福をかき集める熊手はやはり大きい方がいいのかしら。あんまり欲をかいても、なんだか浅ましいけど、やっぱり気負ってしまうのかしら。

入口から入ろうとするから、こんな目にあうのである。入口があるからには出口もあるはずで、そこは列もなく警官もいなくて、お参りした人が三々五々と散っていく。そこを目ざせばいいのだ。酉の市は縁起物の熊手が名物で、掛け小屋の店が境内をうめつくしている。ひやかし客として見物しながら、本堂わきに近づいていく。やっと順番のまわってきた人がお参りをしている。その横に並んでお参りをすませた。べつだん列に割りこんだわけではなく、出口を入口としたまでのこと。神さまだってウルサイことはおっしゃらないだろう。

酉の市は略して「おトリさま」というようだが、数ある全国の祭礼の中でもトップクラスとされている。名物の熊手をつくる業者の組合があって、場所取り、掛け小屋、営業すべてを管理している。お多福、七福神、打ち出の小槌など、福を授ける神サマのオンパレードで、夜の明かりに幻想的な出し物を演じてくれる。赤が基調で、そこに満艦飾の色がつき、見上げていると夢の中へ誘われていくようだ。熊手は大きさや飾りにより値段がちがうが、大小とわず買ってくれた人には、店の衆が景気よく三本締めをしてくれる。

裏口入学のきらいはあれお参りはしたし、ひやかしであれ福を集める熊手もたっぷりと拝んだ。待ちに待った胃袋のたのしみはどこにするか。神社の裏手を埋めて露店が並んでおり、おでん、やきとり、煮込み、はては小鉢類までそろっているが、祭り気分を堪能して、やや食傷ぎみ。少しはなれた、さんざめきが消えかげんの辺りがいいものだ。

静かな界隈にうつるところで小さなイタリア料理の店と行きあった。のぞくとテーブルが五つ、小さな調理場、白い壁にちょっとした飾り物。もし奥に胸の大きな肥った女性が人待ち顔にいれば、イタリアの地方町にいるここちがするだろう。

チーズ、ハムサラダでワインを飲み、仕上げは半熟玉子入りスパゲティ。いい気持ちでホテルにもどって、熱い風呂、あとはいっさい夢ごこち。

その三、「祭りのあとを見る」

福の神たちのひしっめきあった饗宴のあと。熊手を挿していた大竹の筒が整然と。

福の神たちのひしっめきあった饗宴のあと。熊手を挿していた大竹の筒が整然と。

前夜のコースを朝ふたたび訪れる。たしか夜十二時が祭りの終了で、ピタリと業務また営業を停止。いっせいにあと片付けにかかると聞いている。さすが名の聞こえた祭礼であって、あれほど軒をつらね、昼のように明かりをともしていた露店街はあとかたもない。ところどころにゴミの山が見えるが、これは回収車の出動を待つまでのこと。矢印つきのトイレの張り紙だけが、にぎやかな宴のあっったことを示している。

神社の境内は、もっと徹底している。何百、何千の福の神たちが頭上高くひしめき合っていたというのに、天に昇ったか地にもぐったか、煙のように消え失せた。夜の大集団はさては夢だったのかと思いかねないが、むろん、そんなことはない。華麗な熊手を挿していた大竹の筒が整然と並んでいる。人間はこういう道具でも、作るとなると造形に工夫をしたくなるらしく、筒の口中が赤やコバルトブルーで色づけしてあって、無数の口をもつ背高ノッポのイキモノが、色あざやかなベロを出して突っ立っているようだった。

【今回のアクセス:地下鉄浅草駅または三ノ輪駅より徒歩十分あまり】

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