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池内 紀の旅みやげ(29) 誉の家─山梨県富士吉田

古い家の門や玄関には思いがけないものが見つかるものだ。私はそれを「歴史の落とし物」と名づけている。人がよく定期券や財布の落とし物をするように、歴史が何げなく小モノを落としていく。

「譽之家」

大門の柱に鋲で打ちつけてあった。重厚な鉄製、両手でつつむほどの大きさ。タテの楕円形の上が王冠状のレリーフになっていて、そこに三文字が浮き彫りされている。左右に桜の花びらが四つばかり、よくみると下に波の文様が刻んである。赤黒く風化しているが、なかなか手のこんだつくりで、ドッシリとした重量感が見てとれた。

「歴史の落とし物」がこんな形で残されていた。「譽」の旧字が時代をも語ってくれる。

「歴史の落とし物」がこんな形で残されていた。「譽」の旧字が時代をも語ってくれる。

しばらく何のことかわからず、まじまじと見上げていた。「誉」の旧字を「ホマレ」と読むことに気がつき、「ホマレの家」となって、戦死者の出た家だと気がついた。そういえば色の褪せた「山梨縣靖國會員」の標識が寄りそっている。

山梨県富士吉田市。現在は富士スバルラインで五合目まで車で走り上がるが、その前はここの浅間(せんげん)神社が登り口だった。そのため御師(おし)といって、団体をたばねる冨士登山のマネジャーがいた。神職にして宿坊の亭主である。関東一円に得意先をもち、そこから送られてくるツアー客を迎え、かつはお祓いをし聖なる山へ送りこむ。

ひところ富士吉田に多くの御師がいて、目抜き通りに御師の町をつくっていた。タツミチとよばれる引き込み路の奥に大門があって、そのわきを禊ぎ用の清流が走り、奥の大きな宿坊につづいている。江戸から明治にかけて冨士講中とよばれるツアー登山が大はやりで、富士吉田だけで九十人にちかい御師がいた。信仰登山が下火になり、やがてスバルラインができて仕事もなくなり、御師の町もたたずまいを変えたが、それでもかなりが旧形を残している。そのうちの一軒を外川家といって、市の博物館付属施設となり、建物がそっくり旧のまま保存されている。はからずもその大門で「譽」の標識と出くわした。はたしてこれは、いつのころの名誉をあらわしたものだろう?

日清戦争、日露戦争、日中戦争、日米戦争。おもえば近代日本は戦争ばかりしていた。そのたびに数多くの戦死者を出した。軍人は職種として戦死が含まれているが、一般の人は国の命令で出ていき、国のために死んだわけだから、国としては遺族を名誉でつつまなくてはならない。事務方の軍人官僚が知恵をしぼったのだろう。戦争のたびにいろんな名誉マークが生まれたらしいのだ。

以前、山陰地方の小さな町で「満州事変殉国勇士之家」を見かけた。少しかしいだ廃屋の軒に鋲でとめてあった。たしか陶製で長方形だったと思う。長々つづいた日本と中国の戦いはレッキトした戦争だったが、日本軍部は戦争ではなく「事変」だと主張した。政治学ではユーフェミズムというが、遠まわしの言い方をして事実をくらますわけである。戦争なのに事変などとゴマかすものだから、戦死者と名指しできず、苦しまぎれに「殉国勇士」などの珍妙な用語をひねり出したのだろう。官僚のやりそうなことである。講談では真田十勇士が活躍したりするから、そのあたりをヒントにしたのだろうか。

「譽之家」は鉄の素材、職人芸的なつくりの立派さ、ホマレといった明治調の語の使い方からして、日中戦争以前、日清か日露の産物ではあるまいか。国から県・郡・市町村に告知して、遺族をよび出し、ものものしげに手渡したと思われる。もともとは金メッキされていたのが、歳月を経るうちに赤黒い鉄片と化したのではなかろうか。

日中戦争以降は戦死者がうなぎのぼりにのびて、いちいち丁寧なつくりのしろものをつくっていられない。日米戦争のころは鉄をはじめとする物資に欠乏して、鍋、釜の日用品まで供出させたほどだから、鉄製の名誉マークをつくりっこない。たしか薄いアルミ板に「戦没者遺族の家」としるしたのが門に掲げてあった。上に金色の菊の紋章がついていた。

「誉之家」の柱の下にありました。

「誉之家」の柱の下にありました。

門や玄関の軒に「歴史の落とし物」があるのは、その家が旧のままとどまっていたからである。旧家の屋台骨がゆるがなかったケースもあるが、おおかたはそうではなかろう。戦死者が何人も出て家が絶えた旧家もある。富士吉田の御師の家も「おばさんひとり」になり、その死後、市が買い上げて博物館の付属にしたそうだ。

【今回のアクセス:富士急・富士山駅より徒歩十分】

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