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“9月6日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1620年  清教徒たちを乗せたメイフラワー号が新大陸アメリカへ向けてプリマスを出港した。

因習に縛られたイギリス国教会の迫害をのがれて102人が新天地を求めて旅立った。66日間の厳しい航海の末に船が<釣り針>のように大西洋に突き出したケープコッド(=コッド岬)の先端、のちのプロビンスタウンの入江に錨をおろしたのは11月11日である。本来の目的地はさらに南西、いまのニューヨークのハドソン川河口だったが、すぐそこまで季節風が吹き荒れる厳しい冬が迫っておりそのまま船内で<越冬>せざるを得なかった。

春になって<生き延びた>乗客たちはこの地で入植してイギリスの植民地・ニューイングランドの基盤を築いていった。現在の合衆国東部、マサチューセッツ州にあたる。彼らが選んだ「信教の自由」はアメリカのバックボーンになり、象徴としてのメイフラワー号は歴史教科書では必ず触れられる建国の1ページである。先祖がニューイングランド出身というアメリカ人は<メイフラワー号の乗客の末裔>と信じてやまない。

春まで<生き延びた>と書いたが、氷に閉ざされ雪に埋もれた入江から一歩も外に出ることはできなかった。乏しい食料を分け合って寒さに耐えたが壊血病、肺炎、結核などで乗客の半数が死んだ。25人から30人いた乗組員も同じだった。航海中に誕生した男の子と越冬中に生まれた同じく男の子を加えた53人がニューイングランドへの最初の<永久移民>となった。

1629年には2代目のメイフラワー号が建造された。初代とほぼ同じ180トンの2本マストの帆船で35人を乗せて5月にロンドンを出港し8月に到着した。その後、30、33、34、39年と清教徒たちを運んだが41年には140人を乗せたまま行方不明になった。新天地といえども危険と隣り合わせの艱難辛苦の道のりだったわけである。

*1522年  初めて世界一周航海に成功した「マゼラン艦隊」の1隻がスペインに帰国した。
3年前の1519年8月10日にセビリアを出港した際には旗艦のトリニダート号(110トン)以下5隻の艦隊だった。しかし難破や浸水などの故障により無事帰国できたのは4番目の大きさのビクトリア号(85トン)わずか1隻のみ。なにより艦隊の指揮を執っていた提督マゼランが前年4月27日にフィリピン・マクタン島での住民との争いで戦死、同じように戦死や病死などで出発時に270人いた乗組員もたった18人だけになっていた。

マゼラン自身は途中で死んだが人類初の世界周航を達成した「マゼラン艦隊の提督」として後世に名を残した。マゼラン海峡、マゼランペンギン、マゼラン星雲など多くにマゼランの名が冠されたがそれは後世の命名で、パタゴニアと太平洋だけはマゼランが名付けたとされる。マゼラン艦隊は「地球が球形である」ことをみずからの航海で確かめたが、太平洋の大きさの発見で「地球の大きさ」を示し、世界の地誌の確立に大きく貢献した。

その後、スペインはさらに大きな権益を求めて同じ「西回りの香料貿易航路」の開拓をめざすがことごとく失敗する。そして西回りは余りにも危険すぎるとして航路権益はポルトガルに売却された。だが、ポルトガルは実際にその権益を使うことはなく、喜望峰を回る「東回り航路」と比較することによってそちらのほうが有利であることを学ぶ。つまりスペインの多大な犠牲によって生まれた<経験知識という実利>だけを取ったわけだ。

*1858=安政5年  浮世絵師・歌川広重が65歳で没した。

『東海道五十三次』などで知られる。当時、江戸には疫病のコレラが猛威をふるっており死因はコレラだったとも。江戸幕府直轄の火消である「定火消」の安藤家に生まれ家業を継いだが、少年時代から学んできた浮世絵など<絵心>が捨てきれず36歳で家督を譲り、浮世絵師になった。安藤は姓、広重は号だから近年は歌川広重と呼ばれる。公用で上方に上った際の実体験をもとにイメージを膨らませた『東海道五十三次』で一躍人気作家としての名声を決定づけると近江八景や江戸百景など多くの風景画を制作した。花鳥画や美人画から狂歌本の挿絵に至るまで幅広い作品を残したが、それがヨーロッパに伝わるとフランス印象派の画家やアールヌーヴォーの芸術家から絶賛され「ジャポニズム」の流行を生んだ。なかでもモネやゴッホは構図や背景に取り入れるなど大きな影響を受けた。広重が多用した藍色は「ヒロシゲブルー」とか「ジャパンブルー」として大胆な構図とともにヨーロッパやアメリカで愛された。辞世は

東路に筆をのこして旅のそら 西のみくにの名ところを見む

とされる。西のみくにとは西方浄土のことだから「あちらへ行ったら浄土の名所を見て回りたい」という意味だ。ちょっと出来すぎの感もあるから広重の名跡を継いだ弟子があとから作ったとする説もある。でもいいじゃありませんか。

浄土の名所巡りの作品をちょっと見てみたい気もするが<あちらでしか見られませんよ>となると怪談めいてきますなあ。

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