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“9月5日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1905=明治38年  アメリカのポーツマス海軍工廠で日露講和条約が調印された。

調印は日本の首席全権・小村寿太郎とロシアの全権・ウイッテで行われた。日本海海戦で勝利した日本だったが渋るロシアを席に着かせるために米大統領・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼するという一幕もあった。背景には戦力の涸渇が限界にきておりすぐにでも戦費を手に入れたかったのだが、革命騒ぎに揺れるロシアは交渉どころではなかった。会談が始まったのは暑い盛りの8月だったから避暑を兼ねてこの地が選ばれた。日本側は駐米大使・高平小五郎、ロシア側は同じくローゼンが加わって戦勝国の日本が提示した条件案をたたき台にして進められた。ところが日本側が要求したロシアが清国から租借するハルピン・旅順間の鉄道譲渡は途中の長春・旅順間に短縮された。肝心の軍費賠償(15億円)と樺太の割譲で大揉めとなり、一時は交渉決裂までもつれたが日本側が大きく譲歩して賠償を取り下げ、ロシア側も樺太の南半分を割譲することと沿海州での日本の漁業権を認めることでようやく折り合った。

<戦勝気分>に浮かれて自国の実情など詳しくは知らされていなかった国民は、条約内容が伝えられると国権派を中心にして「講和問題同志連合会」を結成するなど東京、大阪をはじめ各地で国民大会を開いた。東京・日比谷では集会後に参加者が暴徒化し国民新聞社、内相官邸、警察署を襲撃したほか市内の交番の7割が焼き打ちされ、電車やキリスト教会も焼かれるなど荒れに荒れた。翌日も暴動は治まらず政府は東京に戒厳令をしき軍隊動員で鎮圧。2千人以上を逮捕、300人以上を起訴して87名が有罪になった。

この日比谷焼打事件では死者17人、けが人500人以上を出したが騒乱の中心になったのは戦争の犠牲になった貧しい労働者層だった。戦勝気分で吹いたラッパがあの「豆腐屋のラッパ」のはじまりというもっともらしい説も残る。

*1823年  18歳の娘に恋した73歳の文豪・ゲーテが結婚を申し込んだ。

1年越しの恋を実らせようと以前、自身の結婚の保証人になってくれたカール・アウグスト公を通じての申し込みは55歳の年齢差からか、正式に断られたことで『マリーエンバート悲歌』という名詩を残した。詩人・劇作家・小説家・政治家・法律家・科学者など多くの顔を持つ。なかなかの<熱情家>だったから14歳で初恋に敗れたのを皮切りに多くの恋をした。多くは片思いに終わったがそのたびに相手に<熱情>を傾けた。情熱と書かないのはなんだかこちらが<熱い>じゃありませんか。<若振りに描く>のが肖像画の特質かもしれないが「ゲーテ、70歳の時の肖像」を見ても心が若い分、はつらつとしているもの。

ゲーテは腎臓が弱かったので1806年ごろからたびたびボヘミア(チェコ)の有名な温泉保養地、カールスバートやマリーエンバートへ湯治に出かけた。温泉に入るより「飲泉」が主だったようだが、有名人なので大事にされたことは間違いない。若い娘に恋をした話も両地に伝わるが、紹介したのはマリーエンバートで見染めたウルリーケ・フォン・レヴェンツォーのほうで彼女が18歳の時にゲーテが見染め、19歳で断られた。

<恋をして作品を生み、失恋して詩を残す>さすが“多産な”ゲーテといえるが、最愛の奥さんは7年前に亡くなっていたから念のため。

*1966=昭和41年  台風18号が宮古島を襲い観測史上最高の最大瞬間風速85.3mを記録した。

8月29日にサイパン島北東で発生した熱帯低気圧が31日には台風に発達、その後も急速に勢力を増しながら北上した。宮古島近海では918ヘクトパスカル、最大風速も毎秒65mの<猛烈な台風>となり4日早朝から風雨が強まった。速度が時速10kmと遅く、暦が5日に変る頃からの荒れ狂う暴風雨で軒並み屋根が吹き飛ばされ、測候所の窓ガラスも粉砕された。当時の琉球気象庁の公式記録でガラスが<割れた>ではなく<粉砕された>とあるのがなんともすごい。

30時間以上も続いた暴風雨で住宅の全壊7,150戸、半壊7,150にのぼり、ほとんどの家屋が被害を受けたが幸い死者はなかった。気象庁はこの台風を「宮古島台風」(1959)と区別するため「第二宮古島台風」と命名した。ちなみにアメリカが付けた名前は宮古島台風が「サラ=Sarah」でこちらは「コラ=Cora」。国内で観測された最大瞬間風速が80mを超えたのは第2位の1961=昭和36年の「第二室戸台風」=84.5mの2例だけである。

*1861=文久元年  横浜のホテルにヒゲ面の大男が投宿、外出もせず10日間連泊した。

この男、横浜港から蒸気船「カーリントン号」で北米へ旅立ったが、あとでシベリアを脱走したロシア生まれのアナキスト・バクーニン(1814―1876)だったとされる。そうならば函館に上陸、横浜で出港を待っていたわけでこの船には他に帰化アメリカ人の浜田彦蔵=ジョセフ・ヒコが乗り合わせていたことになる。宿泊していたのは「ヨコハマホテル」の窓のない小部屋だったという。よほど外を警戒していたのか。

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