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書斎の漂着本(81)蚤野久蔵 花の木登り協会

予備校まで暮らしていた広島の実家の庭先には大きな柿の木があった。直径60センチほどの幹は「ピサの斜塔」くらい傾き、高さ2メートルほどのところで「ねじれたT字形」になった2本の太い枝が横に伸びていた。小学生のころには「危ないからすぐ降りなさい」と叱る祖母がいないのを見計らってははずみをつけて駆け登り、近所の悪童連と枝の分岐あたりの<特等席>に腰掛けて列車見物を楽しんだ。すぐ5、60メートル先を山陽本線が走り、その間は水田と畑で、実家は石垣で一段高い位置にあったから木に登るとさらに北東側、大阪方面からの下り列車が近づいてくるのがよく見えた。お目当ては長い貨物列車を引く蒸気機関車「D51」や特急列車の「C62」で、手を振ると機関士がこちらにも手を振ってくれ、たまには警笛の<特別サービス>もあった。イーデス・ハンソンの『花の木登り協会』(講談社、1976)の表紙を見て真っ先に思い出したのがわが「木登り少年時代」である。

『花の木登り協会』(講談社)

『花の木登り協会』(講談社)

いかにも一家言ありそうな顔が鈴なりの表紙は、井上陽水、高田渡など多くのフォークシンガーのジャケットや作家・沢木耕太郎の新聞連載挿絵を手がけたイラストレーター・グラフィックデザイナーの小島武。表紙と同じ薄緑色二つ折り冊子「花の木登り協会を推す」には、交友のあった井上ひさし、小松左京、田辺聖子、筒井康隆、星新一が名前を連ねているのもさすがである。それぞれが作品と「ハンソン女史」のことを面白おかしく推薦していて、これがまた<サスガ>なのである。その一部だけでも紹介しよう。

井上ひさし:後半にいたって作者の筆は奔放に跳ねて飛びまわり、読者を遊戯性の世界へ哄笑と共に誘い出し、そして一気に開放する。これは巨大な管理機構下で息もたえだえのわたしたちの前へさがってきた酸素マスクである。一文の得にもならない木登り愛好癖、その愛好者たちの小さな動きが、大きく激しく日本を揺すぶる。

小松左京:私が常日ごろ一目も二目もおいているハンちゃんは二人いて、一人はSF仲間の半村良であり、もう一人がハンソン女史である。実をいうと、本名清野平太郎の「半村良」というペンネームは、ハンソン女史の名前からつけられた、という伝説が、われわれの間である。「良(イ)イデス・半村(ハンソン)」というわけである。

田辺聖子:鋭くてユニークな見識と知性ある彼女だが、私が好きなのは、お茶目で楽しい人だからである。私のうちへ飲みにきて、時間が早いので、市場をうろつき、いわしのみりん干し、揚げたポテト、太いチクワに濁り酒を一本買ってきた。いいセンスをしている。語学は天才的で、日本人より正確な日本語を話し、書くが、食べ物に対する感覚もまた、そうであった。「これは手でたべる方がおいしねん」と、指でチクワをつまんで杯を傾け、青い目をうっとりさせて飲むほどに「月の法善寺横丁」など唄うのであった。

筒井康隆:ナンセンス小説の骨法を心得た、とても処女作とは思えぬおもしろい作品だ。ナンセンスだけで長篇を書くのは困難である。緊張と興味を持続させることが難しいからである。まったく意外な人が意外な小説を書いた、としか言いようがない。作家イーデス・ハンソンのファンが大量に発生するかもしれない。

星新一:かつて私たちは、まじめ尊重で深刻愛好の国民性といわれていた。最近はかなり笑うようになってきたというものの、電波媒体に限られていた。それがこの作品によって、小説の分野にまで拡大された。電波媒体のなかで活躍しながらも、周囲を醒めた眼で観察し続けてきたハンソンさんの才能の結実といえそうである。

ハンソン本人も木登りの魅力を語っている。

やァ、冗談抜きに、木登りってものすごく楽しい。子供の時分、ママゴトやなんか、女の子らしいとされている遊びに目も向けず、私はもっぱら木登りに専念していた。今でも年に一回アメリカへ母の顔を見に行ったときだけは、家の裏に大きくデーンと立っている木(アメリカつが)と自由に遊べるので、他の都会人と比べて、まだマシな方だろう。見晴らしはいいし、そよ風がやって来るたびに、ふわーふわー、しゃーしゃーとやさしく揺れて、別世界のような感じである。冗談じゃなく、木登りは本当に素晴らしい。

「冗談抜きに」、「冗談じゃなく」と重ねて書いている本人の木登り姿がこちら。当時流行した裾の広がったパンタロン風ジーンズがなつかしい。

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寄り道はこのくらいにしてプロローグはこうだ。

『木登り協会』という有名なグループがあったのは、昔、むかし、オオムカシ、ある東洋の国で、1976年(その国では昭和51年とも言っていたが)の1月の第2木曜日であった。それまではただ木登りの好きな仲間が時々寄り集まって、木の多い地方へ出掛け、2泊3日で木に登ったり酒を飲んだりして楽しんでいただけで、組織というようなものはなかった。

つまり『木登り協会』ができたのは「ある東洋の国」だから、登場する場所や人物すべてが断りを入れなくてもフィクションなのである。じゃんけんの真剣勝負で初代会長に就いたのは薬局チェーンの中年社長で、就任のあいさつは「団体旅行は人数が多ければ多いほど安くなるわけだから、お互いに助け合う意味で、先ず会員の人数をドンドンふやすよう、みんなで努力シマショー。目標!ヨンヒャクニジュウナナ人!」どこかで聞いたような。

やがて協会はどこやらの家元制度にならい「木登り大猿流」に生まれ変わる。会員たちもそれぞれの立場によって「先生」と「弟子」に変わり、毎月おさめる会費も「月謝」と呼ばれるようになる。新たに定められた資格も、最もやさしい梅級から松級、猿すべり級、最高位の屋久杉級まで10段階を経て名取の手前まで行くのが一般用試験。その上は<名前をもらえるだけで教える資格がない>通俗名取り試験。先生として商売ができる専門部名取り試験のいずれかを受ける仕組みで、試験のたびに膨大な受験料が集まるので組織も肥大を続ける。この制度もどこかで聞いたような。

ところが時の絶対与党、中田作栄首相が打ち出した「マイホーム劣等感改装論」で住宅用地の買収や国有林をはじめとする山林や森林地帯が盗伐を防ぐために立ち入り禁止となる。この政策もどこかで聞いたような。

テレビでも協会役員を出演させる「うわさの木登り」やホームドラマの「寺内木登り一家」が人気番組となる。MHK(民主主義放送協会)のベテランアナウンサーで年末の「空白歌合戦」や「ふるさとのドンチャン騒ぎ」などでおなじみの味方テロ―がMHKをやめて、夏の総選挙にタレント議員として当選したがその味方を司会者にした「全国木登り縦断」が登場する。これもどこかで聞いたような・・・。

他にも「どこかで聞いたような」という人物や組織がてんこ盛りであるが、具体的な木登りシーンは登場しない。理由は「木登り協会のお話」ですから。そうだ、久し振りにどこかで木登りでもしますか、元・木登り少年や少女に声をかけて。「おーい、木に登りませんか~。木に登る体力のあるかたはぜひ!」なんてね。元・木登り少年としては何だか血が騒ぐなぁ。

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