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“3月19日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1912年  南極点のテントでイギリス隊を率いるスコットは最後の日記に記した。

「おお神よ。ここはただ恐怖の場所である。このはなはだしい労苦のあと、一番乗りの名誉さえ報われず、恐ろしい極みである。いま我ら野心のゴールを後にして、ふたたび1,300キロの曳行をせねばならない。――さらば白日夢のすべてよ!」

ようやくたどり着いた極点にはノルウェ―国旗がひるがえる小型テントがあり中には寝袋や靴下などのほか、アムンゼンがスコット隊に伝達を依頼したノルウェ―国王あての手紙があった。アムンゼンは帰途に全員が遭難死した場合も考え、後に極点を踏むことになるスコット隊に<初到達証明書>としての手紙を託そうと考えた。

消息を絶ったスコット隊が救難隊によって発見されたのは6か月後の9月で、スコットら3人の遺体は確認されたが残りの2人は行方不明だった。遺体はそのまま発見場所に埋葬されたが日記やスコットが妻や隊員の遺族らにあてて書いた計12通もの遺書は英国に持ち帰られて公開された。そのなかには遅れの原因になったとされた採集した地質標本、手に握っていたブラウニングの詩集なども。

特筆されるのはアムンゼンの託した手紙は<自らの敗北証明>にもなることを知りながら、持ち帰ろうとしたこと。悲劇のスコット隊の名声を高めたとはいえまいか。

*1956=昭和31年  日本住宅公団が第1回目の入居者募集を始めた。

第1号となったのは大阪府堺市の金岡団地で募集戸数は675戸、家賃は2Kが 4,050円、2DK が4,850円だった。前年の建設省の住宅事情調査では不足住宅は全国で推定270万戸といわれ、住宅公団はその解消をめざして同じ年に誕生した。

金岡団地にはエレベーターはなかったが、鉄筋コンクリート造り4階建て、ダイニングキッチン、浴室付き、玄関はシリンダー錠で防犯対策も万全というのがPRポイントだった。
当時の大卒初任給が13,000円前後、公務員の初任給が9,000円だったことを考えるとかなり割高ではあったが1,800人の申し込みがあり、競争率は2.67倍。当落の悲喜こもごもが新聞の話題になった。

4月25日から入居開始となったが、引っ越し当日は見ず知らずの人たちが大勢で手伝いにきてくれた。これが新聞販売店や酒屋、米屋が雇ったアルバイトで、その後、当分お付き合いさせられたなどという笑い話も残る。

*667年  中大兄皇子が都を奈良の飛鳥宮から近江志賀に都を移した。

663年8月に友好国だった百済を救うため出兵した中大兄は韓半島の白村江で唐と新羅の連合軍に大敗した。中大兄は報復を恐れ、博多の南に水城や各地に山城を築いたりしたがそれだけでは安心できないとして遷都を計画したとされる。「大津京」「志賀京」ともいい琵琶湖の南岸、現在の大津市にあたる。

北陸・東海・東山道に通じる交通上の要地ではあったが貴族や官人をはじめ民百姓に至るまで遷都への不満が渦巻いた。何度もの不審火があったのはそのせいか。

さざなみや志賀の都は荒れにしもむかしながらの山ざくらかな

これは「一の谷の合戦」で討ち死にした平家の武将・平忠度の歌。預かった藤原俊成が『千載集』に載せた。

*1892=明治25年  東京府が各学校に明治天皇・皇后の御真影と教育勅語「奉置」を命じた。

近代日本の軍国化と天皇制が教育の柱にされた象徴のひとつとされる。その後、全国に拡大したが御真影は宮内省から各学校に<貸与>された。元旦、紀元節、天長節、明治節の「四大節」には講堂の正面に飾って<遥拝>した。つまり遥かに拝するということ。生徒たちは直視すると「もったいなくて目がつぶれる」とされた。

長野県の小学校の校長だった作家・久米正雄の父は学校の火事で御真影が焼失した責任を取って割腹自殺した。各学校は保管に気を遣うことになり耐火金庫に納め、校庭に土蔵造りや石造の「奉安殿」を建てて厳重保管した。それでも心配な場合は町村が預かって保管した。火事や水害になれば教職員は真っ先に持ち出さなければならなかったことはいうまでもない。

米軍上陸で全島決戦の沖縄では防空壕の一番奥に桐の箱に入れられたいくつもの御真影が置かれていたという記録もある。その手前が避難民だったから命より大切なものだった。

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