1. HOME
  2. ブログ
  3. “9月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“9月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1945=昭和20年  東京湾の米戦艦「ミズーリ」の艦上で降伏文書の調印式が行われた。

沖合20マイルに<進駐>してきた「ミズーリ」には日本政府を代表して重光葵外相、軍部を代表して梅津美治郎参謀総長、連合国側からは各国代表と最高司令官マッカーサー元帥がそれぞれ署名を行い足かけ5年間にわたった太平洋戦争は正式に終結した。ここに至るまでには政府要人が全権になるのを嫌がって人選が難航し、軍部が「降伏」の二文字が変えられないかと最後まで抵抗するなどした。調印式の随員として早朝、首相官邸に集合した外務省の加瀬俊一らは出発に当たって東久邇宮首相や近衛公爵らと水盃を交わしたことをはっきり覚えていた。横浜までの沿道で万一でも<憂国の手合>に襲われるかもしれないという悲壮な覚悟だった。横浜までの沿道は一望の焼け野原で加瀬は「国破れて山河もなしか」とつぶやいた。

横浜港から駆逐艦に乗って着艦すると足の不自由な重光を助けて艦上へ。一行が席に着くや否や事前には<調印以外の予定はなし>と聞かされていたにもかかわらず、マッカーサーが朗々と演説を始めた。自由と正義と寛容の重要さから説きはじめて最後は「日本民族がその才幹を建設的に活用するならば、やがて惨憺たる状況を脱して栄誉ある地歩に進むことが出来るであろう」と結んだ。加瀬はそれを日本国民に対する<応援演説>のように感じた。帰りの駆逐艦で演説の要点をしたためて参内する重光に託したが、日本人への信頼と天皇への<親近感>があったとニュアンスを書き添えたと述懐している。

この日、天皇は「敵対行為ヲ直チニ止メ武器ヲ措キ・・・」という詔書を発した。マッカーサーは「指令第1号」で朝鮮半島の日本軍に対して38度線を境にして米ソ各軍への降伏を指令した。一方、中国では南京で支那派遣軍総司令官の岡村寧次大将が中国陸空軍の何応欽上将に対して降伏文書に署名。一連の調印を以て外地の軍人約314万人の復員がようやく始まった。

*1921=大正10年  『北海タイムス』に連載された「玄米食と菜食主義の勧め」が話題を呼ぶ。

書いたのは世界的な細菌学者の二木(ふたき)謙三。秋田・佐竹藩の藩医の子だったが生まれたときは病弱で1年持たないといわれた。長じても多くの病気に悩まされ、徴兵検査の時に検査官から病弱な体を指摘され「軍隊の黒い麦飯を食え」と一喝された。検査も落ちたこともあり翌日から試しに麦飯を食べ始めると虚弱な体から解放され、病弱を自分で改造したことで自信が持てるようになった。東京帝大医学部で細菌学を研究しドイツ・ミュンヘン大に3年間留学して免疫学を学んだ。帰国後は赤痢菌の2種類の新種を発見、伝染病研究所長、東京帝大教授などを歴任した。日本感染症学会の前身となる日本伝染病学会を設立、1955=昭和30年にはネズミに咬まれたことによる感染症である鼠咬症の研究で文化勲章を受章した。これだけは確認のしようがないがノーベル生理学・医学賞の候補にもなったといわれている。

西洋医学を学びながら自身が救われた「食養生の普及」をライフワークにした。そのエッセンスを紹介すると完全食・食事法・呼吸法の三本立てだった。完全食とはそのままにしておくと芽が生えてくる玄米、野菜などの植物、生きている動物などの<完全食物>をそのままか「二分間煮」にして食す。これは野菜を煮る場合でも<沸騰して2分間>で火を止め、蓋をしたまま5~10分蒸すというもの。玄米以外には卵、牛乳、サツマイモ、カレーライス、変ったところでは南米原産のホウレンソウに似たキヌアという植物を勧め、調味料の塩もなるべく使わないようにと指導した。白米や豆を加工した豆腐、魚のおいしいところだけを切り取った刺身は<不完全食物>に分類した。

食事法は完全食の一日分を等量ずつ食べること、例えば朝と夜の2食なら同じ量と同じ内容を食べなさいと。うーむ、これは簡単そうで難しいですぞ。昼と夜の2食でも同じですものね。完全食ならば副食を取らなくてもいいし等量食べることで体調に偏りがなく全体では少量で済むとした。当時の平均寿命は現在より低かったが「二木流食養生における理想的な食事」はこうだ。

40~60歳(初老):大きな動物を食べるのは止め、15歳以前の子供と同じく野菜類と小動物にする。(牛豚はダメ、鶏肉は新鮮なら可)
60~80歳(中老):5歳以前の子供と同じく穀菜食にする。
80歳以上(大老):ものをよく噛んで汁だけをしゃぶって食べる。

主な著書には『食物と健康』『身土不二』などの食養生のほか『腹式呼吸と健康』などもあるがここまで書いて何だか“息切れ”しそうなので「呼吸法」は割愛させてもらう。

『北海タイムス』は戦前の北海道ではかなりの部数を発行していた有力地方紙。この記事がなぜ話題になったのかというと内地に比べて新しい大地で、住民意識も新しかったからとされる。しかし裏返せば厳しい風土で食料事情も好条件ではなかったからのように思う。

最後に、では博士はその後どうなったのか。亡くなったのは1966=昭和41年4月7日。病気もせず老衰による94歳での長逝だから<大往生>だったのではあるまいか。

関連記事