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“10月27日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1890=明治23年  東京・浅草六区に「十二階」と呼ばれる楼閣・凌雲閣が完成した。

浅草寺の境内の水田に池を掘り周囲に造られた街区が浅草六区で、見世物小屋や演劇場、活動写真館、オペラ常設館が並ぶいちばんの歓楽街となり突き当たりに凌雲閣がそびえた。朝日新聞は「凌雲閣は八角の煉瓦にて其の高さ二百二十丈余(=約66m)坪数は三十二坪(=約106㎡)、二階より八階まで種々の売店を設け、縦覧人昇降の便に供するため昇降室なるものを設け、電気を以て之を昇降す。頂上に昇れば富士も筑波も家も川も皆一眸=望のもとにあり」と紹介した。建物は八角形で赤煉瓦の外壁には各面ごとに窓があり、夜にはそこからの光が八方に輝いて公園の池に映る姿が錦絵や絵葉書などに残されている。昇降室とは15馬力の米国製の電気モーターで巻き上げる日本初登場のエレベーターで一度に20人が乗れて人気を集めた。これで一気に8階まで昇り、上階には階段を利用した。いちばん上の12階には30倍の望遠鏡が備え付けられ「時事新報」には「上野の森を打ち越して彼方を望み、千住製絨所や王子製紙所の煙突があたかも竹の子の頭のような奇景である」と書かれた。

11階は建物の裏と表に50燭光のアーク灯が吊るされ、10階は周囲に椅子を並べた眺望室、9階は上等休憩室、2―8階は46の売店があり各階を見ながら降りてきた。売店はそれぞれ工夫を凝らし、たとえば「清国コーナー」ではチャイナドレスの店員が現地で買い付けた商品を販売して大人気だった。入場料は大人8銭、小児4銭で「下足料要せず」と書かれている。入口に泥落としの棕櫚マットが敷かれていたから履物はそのままでよかったのにわざとらしいが昇降室の前での混乱防止のためだったか。11月10日に開業式、11日から公開と新聞広告などで大々的に宣伝した。開業特別企画は「米国南北戦争パノラマ館」で展示した武器はすべて当時の戦争に使われた実物、頭上に吊るした天幕=テントはグラント将軍が戦場で実際に使ったものであるという触れ込みだった。翌年夏の企画では東京府下の芸者100人の顔写真を館内に飾り、人気投票で票数の高い数名には金時計を贈るとして柳橋、吉原、日本橋、浅草、新橋などのきれいどころの名前を全員紹介している。

何かと話題を呼んだ観光名所だったが1909=明治42年1月21日には初めての身投げがあり「凌雲閣より飛降り自殺」と報じられた。神田須田町の鮨屋の長男・佐々木初太郎で26歳、吉原の娼妓、小桜こと吉岡かねに入れあげた挙句、夫婦になれないのを悲観したと報じられた。財布には「佐々木かね」名義の帝国貯蓄銀行須田町支店の預金通帳があったが記入された56円はすべて引き出されていた。手帳の走り書きに「自殺をするから小桜のところへ知らせて呉れろ」とあった。それにしても通帳には勝手に<入籍>していたのか。見出しには「女に溺れた神田ッ児」とある。

建物は二重壁で中心に<安全柱>が走り、周囲の円柱は長さ10間=18mを地中1間=1.8mずつ埋め込んだと書かれているが関東大震災では8階以上が折れて崩壊、地震発生時に展望台部分などにいた十人は福助足袋の看板に引っ掛かって助かった1人以外は転落死した。経営難から復旧は困難で陸軍工兵隊が出動し爆破解体されたのが最後の話題になった。

*1944=昭和19年  徳川夢声の『戦争日記』に大磯での大釣果が書かれている。

「大磯からの帰りの土産、大したもんだ。大アジ5、金目ダイ2、カマス3――これを大戦果、空母5、戦艦2、駆逐艦3と考える。お祝いに国民服1着誂える。これも大戦果」とある。夢声は日本におけるマルチタレントの元祖だが“老成した”雰囲気があったから40代には「夢声老」50代は「夢声翁」と呼ばれた。太平洋戦争中には各地へ慰問興行に出かけ占領地での日本軍の横暴ぶりをこの日記に残している。このときはちょうど50歳。戦争下なのに相模湾で気ままに海釣りとはいい気なもんだ!というより忙中閑あり、こうした息抜きができる余裕もあったというべきか。

*1931=昭和6年  第6回明治神宮体育会で日本人初の世界新が2つも生まれた。

織田幹雄が三段跳で15m58cm、南部忠平が走幅跳で7m98cmを出した。織田は広島県出身。早稲田大学生だった1928=昭和3年のアムステルダムオリンピックで15m21cmを記録して優勝しアジア人の金メダル第一号に輝いた。卒業後は朝日新聞社に入社していた。南部は北海道出身。織田と同窓でともに参加したアムステルダムでは三段跳で4位に入賞した。明治神宮体育会では走幅跳での世界新記録だったが、翌年のロサンゼルスオリンピックでは三段跳に出場、15m72cmで金メダル、走幅跳でも銅メダルを獲得した。南部の世界記録はその後40年間、日本人選手には破られなかった。当時は土の助走路でスパイクも旧式だったから南部の記録がいかに突出していたかがわかる。

*1975=昭和50年  角川書店創立者で俳人の角川源義が58歳で死去した。秋燕忌。
富山県出身、国学院大学に入学し折口信夫の短歌結社「鳥船」に入会した。大学を卒業し中学校の教師を経て1945=昭和20年に角川書店を設立した。阿部次郎の『三太郎の日記』を合本として上梓して成功を収め、岩波書店と新潮社が文庫では双璧だったところに角川文庫で割って入って成功させた。1952=昭和27年発行の『昭和文学全集』は記録的な売り上げとなって文芸出版社としての地歩を確立した。

俳人としては句集『ロダンの首』、『秋燕』、『神々の宴』、『冬の虹』や読売文学賞を受賞した『西行の日』がある。

  花あれば西行の日とおもふべし

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