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“10月17日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1968=昭和43年  作家・川端康成が日本人初のノーベル文学賞を受賞した。

夕食を済ませて立ち上がりかけたところへ外国通信社からの電話が受賞を知らせた。湯川秀樹、朝永振一郎の物理学賞に次いで3人目のノーベル賞受賞で文学賞受賞はアジア人としてはインドのタゴールに次いで2人目だった。「日本人の心の精髄を優れた感受性をもって表現するその叙述の巧みさ」という受賞理由のほかにスウェ―デンアカデミー事務局長のエステルリンク博士は「川端は東洋と西洋の精神的なかけ橋づくりに貢献した」と述べた。薩摩がすりの和服に着替えた川端は間もなく押しかけた二重三重の報道陣に囲まれた。

川端は「第一のおかげは日本の伝統を作品に書いたから。第二のおかげは各国の翻訳者が良かったから。日本語で審査してもらったらもっと良かった。第三のおかげは三島由紀夫君。昨年候補にのぼりながら、若すぎるからとダメになりお鉢が回って来た」と語った。戦後長く日本ペンクラブ会長をつとめ、昭和32年には東京で第29回国際ペン大会を開催、翌年には国際ペンクラブの副会長に押された知名度が受賞にプラスしたともいわれた。川端の談話は続けて「受賞は大変名誉なことですが、作家にとっては名誉などというものはかえって重荷になり、邪魔にさえなって委縮してしまうのではないかと思っています」と暗示的な発言を残した。

川端が逗子市の自宅マンションで死亡しているのが発見されたのは4年後の昭和47年4月16日、72歳だった。死について発見当時は自殺と報道されたが遺書もなくその後は自殺、事故死と取り沙汰されたもののわからずじまいになった。文章指導にもあたるなど目をかけた岡本かの子の処女作『鶴は病みき』が「文学界」に掲載されたときには推薦文を寄稿、死後も文学碑の揮毫をしたが机の上には「岡本かの子全集」の推薦文原稿が書きかけのまま残されていた。

大阪・天満で開業医の長男として生まれた。父母の死で祖父と茨木市に移り旧制茨木中学には首席で入学したが入学後間もなく関心が芸術などに向かい、勉学は二の次になった。中学の作文の成績は53点で88人中86番だったというのは微笑ましい。東京帝大文学部を卒業後、文化学院文学部の教師時代の1927=昭和2年に『伊豆の踊子』を発表した。『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』などがある。

国鉄=JRの<ディスカバー・ジャパン>のタイトル「美しい日本と私」とノーベル賞受賞記念講演の「美しい日本の私」が一字違いで類似していたのをあっさりと許してポスター用に揮毫して話題になった。凛としていながら繊細でやさしい字でした。

*1877=明治10年  華族学校「学習院」の開校式が明治天皇・皇后が臨席して行われた。

校名は明治天皇の「朕今光志(=先帝・仁孝帝)ヲ紹述シ本校ヲ名(なづけ)テ学習院ト号ス」という勅旨によって名付けられた。華族の子弟を教育し国民の模範として将来は国家を背負って立つ人物になることを期待した。華族の同族組織である華族会館の経営で華族からの挙出と宮内省からの下賜金により神田錦町に開校したが1884=明治17年に宮内省所轄の官立学校になり翌年、四谷尾張町に華族女学校を設置した。現在の目白に移転したのは1908=明治41年で戦後は私立学校となったが大学をつけずに「学習院」と呼ばれるのは<毛並みの良さ>からか。

初代院長は旧陸奥下手渡藩主立花種恭で第10代が乃木希典、わずか一回の卒業生を出しただけで廃止になった大学科の卒業生に元首相の吉田茂がいる。

*1887=明治20年  横浜市街地に日本初の近代的上水道による給水が始まった。

「港ヨコハマ」は外国船舶の寄港でコレラや腸チブス、赤痢などの最大の<進入口>となっていたのが悩みだった。いったん伝染病が発生すると船舶への給水が出来なくなるため香港と広東の水道を設計した実績のある英国陸軍の工兵中佐ヘンリー・スペンサー・パーマー(1898-1893)に設計を依頼した。パーマーは1883=明治16年に来日し3か月がかりの測量で多摩川と相模川から取水する2案を出して帰国した。神奈川県は翌年大佐に昇進していたパーマーを再度招き水源を水量豊富な相模川支流の道志川とし横浜・野毛山に建設した貯水池まで総延長48キロの導水管を敷設する難工事をやり遂げた。

横浜市の上水道に続いたのが函館、大阪、長崎、広島、東京、神戸、下関でいずれも港湾都市だった。パーマーは少将で定年退官したのち内務省の勅任官として日本にとどまり、横浜港の築港工事の設計や各地の水道設計を手がけた。獅子の口から水を吐く「獅子頭供用栓」はパーマーがイギリスから取り寄せた。なかでも兵庫県三木市にある淡河(おうご)川疏水の「御坂サイフォン橋」は通称・眼鏡橋と呼ばれ石造アーチ橋として有名である。

日本を愛したパーマーはジャパンタイムズなどに寄稿したほか英国の高級紙ロンドン・タイムズの通信員として豊富なイラスト入りの「日出ずる国からの手紙」を書き送った。当時の日本をくわしく紹介して人気を呼んだが脳卒中のため54歳で東京麻布の自宅で倒れ、青山外人墓地に眠る。

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