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“6月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1774年  イギリスの船大工ジョン・デイが潜水艦を作った。

綱に結んだ石の重さで沈下し、それを解き放つことで浮上するという単純な仕掛け。試験潜航で艇は水深40メートルまで潜ったが一瞬にして押しつぶされてしまった。デイがまともに潜航したとすると40気圧の水圧がかかったわけだから乗っていたらとても助かりそうもないが「命に別条云々」とは書かれていないから無事だったのか。

その深さまで潜ったのかどうかはさておき、水圧のこわさを初めて知ることになったこの御仁、これ以上のデータはないがひょんなところで<歴史上の人物>になった。

*1901=明治34年  政友会の実力者で東京市参事会議長の星亨が白昼、市庁舎内で暗殺された。

江戸の左官屋の子として生まれた。父が出奔、母親が浦賀の医師と子連れ再婚して星姓に。横浜で英学を学び維新後に神奈川県令(知事)だった陸奥宗光の推挙で県の通訳を経て法律研究のためイギリスに留学する。帰国後は代言人=弁護士第一号として活躍した。藩閥政治を強く批判する立場から1892=明治25年の第2回衆議院議員選挙に出馬して当選した。公約通り衆議院議長に就任したが収賄容疑などのごたごたで除名となる。次の選挙で返り咲き、第4次伊藤内閣では逓信大臣になった。

星は法律ギリギリの多額の政治資金を集め政界工作や書生をはじめ子分を育てるのに派手に使った。利益誘導型金権政治のはしりともいわれる強引な政治手腕から「おしとおる」のあだ名も。こうした星を新聞が問題人物であるとか<とかくの噂あり>と攻撃、あれこれ書き立てられるダーティーなイメージが暗殺者の狙うところとなった。

午後3時半過ぎ、市庁舎の参事室で会議を終えた星が、居合わせた人たちと談笑しているところへ給仕が「面会です」と言いながら取り次いだ。名刺を預けた中年男は身長が2メートル近くあり、紋付きの着物に袴姿の堂々とした身なりだった。給仕は気づかなかったがすぐ後ろから部屋に入り、名刺を渡した男が星であるとわかると隠し持っていた短刀でいきなり切りつけた。

男は「天下のために奸(かん)賊を殺す」と叫んで十数秒間に4刀刺したあとで「もとより決心するところがあって、この義挙を果たしたのである。諸君らに一切危害は加えない」などと叫んだ。星はほぼ即死だった。

巻紙にこまごまと書いた「斬奸(ざんかん)状」を懐に持っていた。男は幕末の剣客で彰義隊に加わり箱館・五稜郭で戦死した伊庭八郎の弟の想太郎で51歳。自身も武道を学んだ剣術使いで四谷区の学務委員をするなど教育には人一倍熱心だった。しかし考え方は星のような自由主義とはまったく逆の古武士的発想で参事会議長として東京の青少年の教育を預かる星は許せないと思い詰めた。星を暗殺すれば大衆は気づいてくれるという<幻想>を抱いたわけだ。

星の葬儀は盛大に行われた。政財界の重要人物は存命だったすべてが参列したといわれる。政敵の進歩党を代表して大隈重信が弔辞を読んだ。天皇からも従三位が贈られ、多くの市民が出棺を見送った。明治のこの時期まで<サムライ>であり続けようとした伊庭の「警世の義挙」はまったくの不発に終わった。

間もなく星の墓所のある池上本門寺境内には星の立派な銅像がつくられた。第二次大戦中の金属供出で台座を残して撤去されたが戦後、この台座は遺族から寺に寄贈されて宗祖日蓮上人の像が立つ。それもあり、ですなあ。

*1791年  国外逃亡を企てたフランス皇帝一家がオーストリア国境近くで捕えられた。

フランス革命でヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に移されていた皇帝一家は王妃マリー・アントワネットの発案でオーストリアにいる王妃の兄のレオポルト2世を頼ろうと計画する。それには<庶民に化ける>のがいいと思いつく。王妃は別々に行動すべきという側近らの意見を無視して全員が乗れる広くて豪華な馬車で行くことに固執する。しかも馬車には銀食器、衣装ダンス、食料品から喉がすぐ乾くという国王のために<酒蔵ひとつ分の>ワインが積み込まれたから馬車の進行がさらに遅れてしまう。

前日、夜陰にまぎれてパリを脱出したものの、家庭教師に化けた王妃をはじめ、一行だけが<庶民に化けたつもり>になっているだけ。はたから見ればバレバレだったからこの日、ヴァレンヌの街に入ったところで案の定、見破られてしまう。町の名前も良くない?わね。<バレ>ンヌだから、それ以上は言わないけど。王妃は町長夫人に「見逃して」と頼むが「できないものはできません」とにべもなく断られ、パリに護送された。

この一件でかろうじて残っていた親・国王派の国民からも完全に見放されてしまう結果になった。

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