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季語道楽(27)『俳句外来語辞典』  坂崎重盛

 

カタカナ俳句だけを集めた

『俳句外来語辞典』の楽しみ方

 

ハワイや沖縄の気候、風土や生活習慣から生まれた季語の用いられ方、また、その実作俳句の世界をのぞいて見てきましたが、これまた、ちょっと変わった俳句辞典がある。

『俳句外来語辞典︱︱外来語俳句を詠みこなすために』(大野雑草子編・一九八七・博友社刊)。大きめの手帖サイズの判型で函入り、クロース装、総三二八ページの小辞典。本文はカタカナのアイウエオ順。

俳句外来語辞典 大野雑草子編

俳句外来語辞典 大野雑草子編

ちなみに、一番目は「アーケード」。[英]とあり「商店街などで屋根をつけた通路」‹昭›と説明。[英]は原語の国名であり、‹昭›は、この言葉が導入されたと思われる時代の省略記号で‹昭›はもちろん昭和時代。例句は二句(ときには三句)ずつ揚げられる。

アーケードの街は海底五月来る     高橋晴子

アーケード出てもひとりの星月夜    檜 紀代

もう一例、見てみよう。

「アーメン」[英] キリスト教で祈りの終わりに唱える語。

‹室›

この、‹室›という略記に注意が行く。(ほう、「アーメン」という言葉は室町時代に日本に渡来したのか)と知れるから。例句は、

アーメンで終わる祈祷やクリスマス   吉田 清

瞑目し唱うアーメン堂冴ゆる      田続 明

こうして、カタカナ語の入った例句を見てみると、なかなか興味深く、また参考にもなりますが、はたして、この小辞典、他のハンディな季語集や季寄せのように、句会や吟行などの実作の際に役立つのだろうか、と思うと首を傾げざるを得ない。

ときどき、友人たちとの句会で、このような外来語が懸題として出されたとすると、周りから、(まぁ、ずいぶん奇をてらった題を出したなぁ)と思われること必定だろう。(なにも、わざわざカタカナ語の題を出さなくたって、他に季語や題は山ほどあるでしょうに)、とか。

ま、それが、たとえば、その地方に関連する言葉(地名や地形︱︱大河「インダス」や「キャニオン」であれば必然性はあるでしょうが。

参考までに例句を挙げてみよう。「インダス」は

驟雨あとインダス河を見はるかす   室賀杜桂

インダスの秋の朝焼けひとの言葉   高須ちゑ

「キャニオン」は

キャニオンはいにしへの色雪やなぎ  ガルシア繁子

キャニオンの風迎へ入れ夏座敷    アレン圭江

「インダス」の二例句は、どうやらインダス河の付近への旅の途上での作句か? と思われ、また「キャニオン」は、句の作者名から、海外の地に在住する人の句ではないかと推察される。

ところが、これがたとえば「キャッシュ・カード」となると……(こんな題で俳句を作らなければならないとすると、悩ましいことになるのですが)、ちゃんと例句はある。

キャッシュカード押して春愁軽くする  長谷部靜舟

キャッシュカードの氏名凸凹夏痩せて  百瀬虚吹

他に、たとえば「ティッシュ・ペーパー」などいうのも困るでしょう。俗に流れてもいい川柳ならばともかく、この言葉で句を作るとなると……。しかし、これにも例句はある。窮すれば通ずというか。題を出されれば、苦しみながらも句にしてしまうのが、俳句を作る人間のおそるべき“句作本能”。

ティッシュペーパー引き抜き夜寒さざめかす 渡辺和子

ティッシュのみ当たるくじ引き年つまる 藪中洋子

 

この『俳句外来語辞典』を手にし、ページをめくりだした当初、はっきり言って、このカタカナ語満載の俳句辞典を、どう取り扱えばいいのか、ちょっと途方にくれる感じがしたのです。

たしかに珍しい俳句辞典であり、項目や例句を読んでいけば、それなりに興味ぶかく、納得したり、感心したりもするのですが、だからと言って、一ページ、だいたい七〜八項目、その言葉の解説と例句二〜三句(計、十五〜二十句弱)で全体で三百ページ強、を通読する意図も意思もないことを実感する。しかも、例句の作者は、ほとんどぼくの知らない名前︱︱と思ったら、これが自分の不注意だったことにすぐに気づいた。

俳句を作ったり、親しんだりする人だったら誰もが、その名を知っている著名俳人の例句もところどころに、いや、ページによっては二、三句、紹介されたりしている。

(なるほど!)と ちょっとしたイタズラ気分が生じた。著名俳人のカタカナ俳句の腕前拝見、と行こう! と思い立ったのであります。

さて、その例句と作者の俳人名は? ということになるのですが、その前に、いつもとは順序が逆になりましたが、例によって、この俳句辞典の著者による「はじめに」をチェックしたい。途中からですが、

〈外来語俳句を詠みこなすために〉という副題のごとく、日本

語化した外国語・日本語化しつつある外国語にスポットを当て

て、現代俳人の参考作品を‹作例›として具体的に示しているの

が特色であり、ポイントになっている。

と、編集者自ら、この辞典の概要を説明したあと、これまた、ご多聞にもれず、俳句辞典、歳時記の制作にかかわったことの困難さを、

執筆の途上で幾度も投げ出したい衝動にかりたてられたが、

と、愚痴というか、心情を吐露しつつも、末尾には協力者の名前を挙げて謝意を表している。

(ン?)と、文末の二行ほどに目が止まったのは、その氏名の中に︱︱森喜朗、宇野宗佑、中曽根弘文、中曽根康弘︱︱という名を見たからである。他の歳時記や俳句辞典などでは、まず登場しない人物の名ではないだろうか

(ただ、中曽根康弘氏が折にふれて自作の心境句などを披露するのを“興味深く”、受けとめていたことがありますが)。

と、いった人脈も含んでの成り立ちによる、この『俳句外来語辞典』。あらためて興味津々、ページを開いていこう、という気持ちになったのであります。

おっ! 「アカンサス」、和名では「葉薊(はあざみ)」、夏の季語。この例句「アカンサス凛然として梅雨去りぬ」の作者が吉村公三郎(よしむらこうざぶろう)。この人、俳人ではない。映画のオールドファンなら、この名は親しいに違いない。戦後、女性をテーマにした映画を多く手がけた監督で、ぼくも、山本富士子主演の『夜の河』や、これまた山本富士子と京マチ子が共演した『夜の蝶』といったタイトルの映画は見ている。

「アダム」の項は中村草田男と鷹羽狩行の句が。「凍竿し鉄の燭台アダムの首」は草田男。鷹羽は「花栗の園アダムゐてイヴがゐて」。

「アルコール」の項では、書家の町春草の名もある。「アルコール匂う医局のスヰートピー」。

おや、同じ書家の金子鷗亭が「アンチーク」の項で。「アンティックの親子亀手に藤の花」。

「イデオロギ」では、ここでも草田男「黥文(いれずみ)はイデオロギーや片肌脱」。「イブ」では鷹羽「イヴのもの一枚落ちて葡萄園」という、なかなかキワドイ句。

「ウオッカ」では角川春樹が、いかにもの「騎馬の民ウオッカ浴びて月の宴」。

「エキストラ」には山口青邨が登場。「矢絣を着てエキストラ秋晴に」。

「エスカルゴ」では稲畑汀子「エスカルゴ料理に秋のパリの夜を」。

「オアシス」も同じく稲畑で「澄む水も深き色持つオアシスに」。

水原秋桜子も「ガード」で、「梨売りにガードの日影映りけり」。

こうして見てゆくとキリがないので、適当に、はしょるが、どうやらカタカナ語に、あまり抵抗がない、というか、むしろ自ら興を示して作句する傾向のある俳人がいるらしい、とアタリがついた。外来語もなんのその、というか。

草田男、鷹羽、青邨、稲畑、春樹︱︱例句は挙げなかったが石原八束、富安風生などなど。

 

「はじめに」で謝意を表された中曽根康弘の句は「コーラン」。「コーランを誦う産毛も汗ばみて」。(うーむ、この俳句を嗜(たしな)むという元首相は、コーランを誦う(産毛というのだから、多分、若き女性だろう)のどこに目を走らせていたのだろう。なかなか隅におけない御仁のよう。“久米仙俳句”というか。

……とまあ、この、カタカナ俳句辞典、思わぬ著名人の句が紹介されたり、“外来語ウエルカム”の俳人の作例が挙げられたりして、 、読む俳句辞典として実に面白く、また興味ぶかい。

作例の中には、失礼ながら、えっ? こんな句でいいのと思われる句もあるが、それもまた、ご愛嬌。正岡子規だって、高浜虚子だって名句ばかりではない。メモがわりのような句もある。

考えてみれば、これもまた俳句の効用かもしれない。その時の“覚え”としての、カメラのいらないスナップ俳句。その、きっかけが、たまたま外来語であったのにすぎないかもしれないから。

愛蔵の変わり種・俳句小辞典。

 

 

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