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季語道楽(31)『歳事記』というと、…坂崎重盛

 

 『歳事記』というと、つい手が出てしまうが

 

サイジキ︱︱といえば、俳句の世界に親しい人ならば、当然のこと、春・夏・秋・冬そして新年の季語に、解説や例句が添えられ編集、構成された「俳句歳時記」を思い浮かべるでしょう。

しかし、これもまた、世によく知られているように、本のタイトルに「歳時記」という文字はみえるものの、また、確かに、季節の移り変わりに関わる内容のものではあったとしても、俳句とはまったくか、あるいは、ほとんど無縁の書物であったりする例も少なくない。

たとえば︱︱ということで、二步ほど歩いて、我が貧しい書棚の前に立って手を伸ばす。まず、困ったことに、歳時記ならぬ「歳事記」と表記した本が目についてしまった。目に入ってしまったからには、これに触れないわけにはいかないでしょう。手に取る。

⚫『「半七捕物帳」大江戸歳事記』(今井金吾著 ちくま文庫)

これは、『定本 武江年表』(ちくま学術文庫)ほか江戸物の著作で知られる今井金吾による、岡本綺堂『半七捕物帳』に描かれた︱︱江戸の人々の生活ぶりを、四季の月別に綺堂の文を引用しつつ解説したもの。

江戸・明治の本から図版も多く転載され、半七ファン、また、江戸マニアには嬉しい編集ではあるが、本文に俳句の紹介は、四月の「卯の花くだし」で久保田万太郎の「さす傘も卯の花腐しもちおもり」や江戸中期の俳人、山口素堂の、あまりにも有名な「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」などが、ごく、たまに。

というのも、著者による「追記」をチェックしてみると、元本の原題は『江戸っ子の春夏秋冬』で「文庫化」にあたり書名を『「半七捕物帳」大江戸歳事記』とした、とある。そして、このタイトルは「『東都歳事記』にならったものである」とあった。

改題で「歳事記」とはしたものの、初めは「歳事記」でも「歳時記」でもなかったのである。となると、「ならった」という『東都歳事記』が気になる。すぐに棚から引き出す。もちろん「歳時記」ではなく「歳事記」本。

⚫『新訂 東都歳事記上・下』(市古夏生╱鈴木健一校訂 ちくま学術文庫)

これは江戸・天保の時、斎藤幸成・月岑(げっしん)によって著された、江戸の年中行事、四季の物見雄山、庶民の生活等を正月から月ごとに豊富な図版を添えて案内する︱︱「詳細なイベントガイド」(下巻・帯のコピーから)。

著者・月岑は、かの『江戸名所図会』を著した祖父・斎藤幸雄、父・幸孝を父祖とする。つまり、この斎藤祖父、父子幸孝、幸成(月岑)は三代にわたって江戸名主という任務のかたわら詳細な江戸の地誌、歳事本の刊行にそれぞれその生を費やしたことになる。

ところで『東都歳事記』には、『江戸名所図会』同様、本文中のところどころに、俳句が挙げられ、また挿絵の中の詞書の中にも江戸漢詩とともに俳句も添えられている。つまり、この本は「歳事記」とは銘打つものの江戸の「俳諧歳時記」の性格も大いに備えていることになる。

︱︱とここまで書いてきて、何か気になることがある。このちくま学芸文庫版『新訂 東都歳事記』、いつか同様のものを手にしたような心おぼえが……。わが悪癖、関連本探索症の気持ちを抑えかねて(ここか?)と思う箇所を前列の本、積み重ねた上の本をどかしながら探しはじめる。二〇〜三〇分も経過しただろうか(見つからない、ということは、ぼくの思いちがいだったのか)とほとんど諦めかけた時、、ふと、明治二〇〜三〇年代の「風俗画報」の臨時増刊シリーズを思い出す。(たしか「風俗画報」の臨時増刊の中に、明治の歳事記があったはず。その挿絵は「風俗画報」の特派画家といえる山本松谷。とすると、この上下巻本と一緒にセロハンの袋に入れたのは……東都歳事記の類だったのでは?)と、思いついて、重ね積んだ「風俗画報」の臨時増刊本を1束ずつチェックしてゆく。

ありました! まず、明治の歳事記、正しくは『新撰東京歳事記・上・下』(明治三十一年・東陽堂発行)。そして、もう1束、やはり臨時増刊、『江戸歳事記 上・中・下 』(明治二十六〜二十七年?東陽堂発行)。

この明治の東陽堂版で『江戸歳事記』と表題された刊行物が、じつは江戸に刊行された月岑の『東都歳事記』そのものだったのだ。

東陽堂刊のものには、編者・渡部乙羽と大槻修二(如電)の序が巻頭に付されているが、本文は『東都歳事記』と、挿絵も含め全く同様。(ただし、先のちくま本には『江戸名所百景』からの挿絵も随所に加えられている)。

江戸の『東都歳事記』が明治版の『江戸歳事記』に変題された理由などは序文でも他でも明らかにはされていない。多分、東陽堂の意向で「東都」から、もっと購読者に受けやすい「江戸」としたのではないだろうか。

と、まあ、とにかく目出度く探し出せた『東都(江戸)歳事記』と『新撰東京歳事記』を久しぶりに手にしてページをめくったのでした。

に、しても、こういう経過もあり、資料の探索、また本文のチェックと、費やされる時間は本と執筆に費やす時間は8、いや9:1の割合といったところでしょうか。これは愚痴、また執筆遅延の言い訳でもありますが、執筆の1より本との触れ合い、9の方が、きっと9倍楽しいためでもありましょう。

とはいえ、俳句のほとんどが登場しない明治刊行「歳事記」の興味深い図版等をいつまでながめていても仕方がない。時代は現代、昭和、それも戦後に出版された「歳時記」と銘打たれた本なのに俳句の登場しない本もあげてみよう。

⚫『東京生活歳時記』(社会思想社編)

「歳時記」と書名にあるものの、四季の年中行事や生活祭事を構

成し編んだ本で俳句の登場しない本は数限りなくある。たとえば、この一冊、昭和四十四年刊 社会思想社編とあり、「年中行事」「生活風俗」を宮尾しげを、「東京の味」「たべもの」を多田鉄之助、「歴史メモ」を川崎房五郎といった、懐かしい名の執筆人によるものだが、パラパラと見た限りでは俳句の気配すらない。むしろ東京の四季折々の伝統行事、風俗習慣の事典という趣き。

次に昭和ではなく平成の例を出してみよう。

⚫『歳時記考』(長田弘・鶴見俊輔・なだいなだ・山田慶兕著 岩波書店)

共著者の名前を見れば、最初から、?と疑問を抱く人もいただろうが、そそっかしいぼくは、(これは、いわゆる俳諧歳時記に関わる本だろう)と勝手に思い込み入手した。神保町の古本屋のワゴン売りの一冊だったせいもある。

ところが、季語はもちろん俳句もほとんど出てこない。詩人と哲学者と精神科医と科学史家の四人による座談シンポジウム、つまり、話の饗宴(シンポジオン)。

(なんだよう、『歳時記考』と題しているので、高浜虚子や山本健吉のような歳時記周辺の考察かなと思うじゃん)と、少々、肩すかしを食った気分ながら気をとりなおして読んでみると、これが当然と言えば当然のことながら面白い。しかも、あれこれ好奇心が刺激され、また、うんちく満載でためにもなる。

構成は三月、つまり春の章から始まり、二月、冬の章で終わる。たとえば、三月は「卒業」「春眠」「猫の恋」「小林多喜二」と、一応、四つの季語が各項の見出しとなっている。(多喜二が築地警察署で拷問の末、命を奪われたのが二月二十日、つまり多喜二忌は歳時記的に言えば早春。

しかし、季語がタイトルとなっていても、話は俳句のこととはほとんど関係ない。談論風発というか、それぞれの知見と語り口で、いうなればジャムセッション風に進行してゆく。とはいえ、着地すべきところには、ほぼ共通認識で着地する。

「卒業」では、日本の学校での卒業は資格を意味するのではなく、「身分証明」でしかない。また優等生というのは、「服従する能力の証明」であり、「春眠」では、寝ないこと、休まないことを重視されるのが近代合理主義の理想で、革命もまた「不眠の思想」だから困る。『「眠ろう!」という第三の勢力』が必要と説く。

と、まぁ、こんな調子で、︱︱まさに「四季の移り変わりにかこつけて語る知的で愉しい四賢人一大座談会」(本書、背表紙コピーより)一冊で、歳時記という俳諧用語にかこつけて編まれた好企画。

 

とはいえ、道草ばっかり食ってはいられない。所期の目的の、きちんと季語、例句の収められたテーマ別種歳時記のルートに戻らなければ。

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