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“6月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1912=明治45年  石川啄木の第二歌集『悲しき玩具』が出版された。

啄木が4月13日に肺結核のため26歳で死んで2ヶ月後、友人の新聞記者で歌人の土岐哀果(善麿)がタイトルをつけ遺歌集として東京・東雲堂から出版された。
  呼吸すれば、              :呼吸(いき)
   胸の中にて鳴る音あり。     :中(うち)
   凩よりもさびしきその音!    :凩(こがらし)
からはじまり
  庭のそとを白き犬ゆけり。
   ふりむきて犬を飼はむと
   妻にはかれる。

まで約200首を収める。こちらは句読点と一字下げを多用した<三行分け>と呼ばれるスタイルで「石川は遂に死んだ」から始まる土岐の「あとがき」には東雲堂と話がまとまったことを報告に行くと、石川は非常に喜び「氷嚢の下から、どんよりした目を光らせて」枕元にいた節子夫人に「おい、そこのノートをとってくれ、――その陰気な、とすこし上を向いた。ひどく痩せたなアと、その時僕はおもった」とある。

東雲堂とは死の5日前の9日に土岐の尽力で出版契約を結び、受け取った前渡し稿料の20円を持参したことも石川を喜ばせた。苦しそうな息ではあったが<全快後>の計画を笑いながら話した。襖を閉めかけた土岐に「おいこれからも、たのむぞ」と言ったのが最後になった。タイトルは作品についての自身の感想の最後に「歌は私の悲しい玩具である」とあるのをそのまま表題にした。歌は悲しみの産物、玩具は「がんぐ」ではなく「おもちゃ」と読ませようとしたかもしれないが早過ぎる死で永遠の謎になってしまった。

24歳の時に同じ東雲堂から生前に唯一出版された第一歌集『一握の砂』も「三行分け」が新鮮なリズムを与える短歌だったから若い人たちを中心に多くが模倣した。故郷の岩手県では刊行前後から地元紙に作品が掲載されたこともあって反響は大きく、旧制盛岡中学の後輩の宮沢賢治が短歌創作を始めたのもこれがきっかけになったともいわれる。
  東海の小島の磯の白砂に
   われ泣きぬれて
   蟹とたはむる

  はたらけど
   はたらけど猶わが生活楽にならざり :生活(くらし)
   ぢつと手を見る

  ふるさとの訛なつかし
   停車場の人ごみの中に
   そを聴きに行く
などはこちらにある。
それにしても貧困と失意と病気にまとわりつかれた人生ではないか。第二歌集もそうだが石川の死後に生まれた次女を抱き長女の手を引いて函館の実家に帰った節子も結核に感染しており翌年5月5日に亡くなった。結核が<不治の病>とされた時代だった。

*1877=明治10年  岸田吟香が『東京日日新聞』にはじめてレモン水の広告を出した。

商品名は漢字をあてたそのまんまの「黎檬水」だった。「黎檬水は清涼甘味にして、第一渇きを止め暑を消し、三夏の炎に当たりては一日も欠くべからざるの飲料なり。若し是を氷水に点じて一喫すれば、如何なる山海の珍味も及ぶべき物なきが如し」といった調子でひたすらその効用を宣伝した。

○大瓶四合五勺入、代金三五銭
○小瓶二合五勺入、代金二十銭

但し水呑みコップ一盃の水に少しばかり注ぎ込みのむんだよとあるから<濃縮ジュース>だったようだ。発売は銀座2丁目1番地の「精銀水本店」で、卸しと小売り仕候、代金は跡(後)で申し上げ升(ます)とある。

岸田はいまのコピーライターやプランナーの先駆者で事業家でもあった。海外新聞を発刊、横浜で『横浜新報もしほ草』を編集するかたわら「氷室商会」を設立して氷を販売するかと思えば銀座やのちに中国・上海に出した薬局「楽善堂」で「精錡水」という目薬を売り出すなど広く医療や福祉分野でも活動した。変わったところでは東京・横浜間の蒸気船運行計画というのもあった。洋画家の岸田劉生は四男である。

当時、飲料といえば酒とビールでビールはまだ珍しい「麦から作られた酒」で一般庶民への普及には至らなかった。ときどき新聞に取り上げられるラムネも主に外人が飲んでいた程度で「先ずその口栓のポーンと音がして抜けたるに度肝を抜かれ・・・」という<珍奇談>として取り上げられた。

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