1. HOME
  2. ブログ
  3. “3月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“3月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1954=昭和29年  ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で「第5福竜丸」が<死の灰>を浴びた。

全国有数の遠洋漁業基地の静岡・焼津港所属のマグロはえ縄漁船で140トン、乗組員23人、当時の船名は「福龍丸」だった。被災後、漁を切り上げてフルスロットルで2週間後の3月14日早朝に焼津港に戻った。翌日の水揚げ後、そろって焼津協立病院で診察を受けたが医師には未知の症状だったため、ただれなど外部所見のひどかった2人が翌朝の一番列車で東京に向かい東大病院に入院した。

「第5福竜丸が<ピカドン>にあったらしい」という噂は偶然、読売新聞焼津通信部の新米記者に伝わる。連絡を受けた東京社会部は東大病院に記者を走らせて病院内を探し回りようやく入院中の乗組員をつかまえてインタビューに成功。16日の朝刊で大々的なスクープを放つ。

「邦人漁夫、ビキニで原爆実験に遭遇」「23名が原子病」「1名は東大で重傷と診断」「水爆か」などの見出しが躍った。

ここから国中を揺るがす大事件になっていく。静岡県と静岡大学の合同調査団は焼津港の船体ばかりか乗組員からも強い残留放射能を検出する。放射能測定器=ガイガーカウンターを近づけると測定器は放射能の存在を示す「バリバリ、ガリガリ」という激しい音を立て、針が振り切れてしまった。

同じころ、大阪中央市場でも焼津から入荷したマグロから強い放射能が検出され、当時の厚生省はセリを中止してすみやかに地中に埋めるよう緊急指示を出した。見えない放射能の恐怖、測定器の反応音から「泣く魚」とか「原爆(原子)マグロ」と呼ばれ、隔離されたマグロの写真には「手を触れるな!原爆被害品 衛生局」と墨で大きく書かれた紙が貼られている。埋設処分されたマグロは1万9千貫(約71トン)にのぼり入札価格も半値以下に急落した。

症状が比較的軽いとして焼津に残っていた無線長の久保山愛吉さんは記者団に被爆当時の状況を
「午前4時ごろ水平線にかかった雲の向こう側から太陽が昇る時のような明るい現象が3分間ぐらい続いた。約10分後、爆弾が破裂したようなにぶい音が聞こえ、それから3時間もすると粉のような灰が船体一面に降りかかった。その晩は飯も食えず酒を飲んでもなぜか酔えなかった」。さらに「2日目あたりから幾分頭の痛い人も出てきた。3日目には灰のかかった皮膚が日焼けしたように黒ずみ、10日くらい経ってから皮膚が水ぶくれの症状になった。いまのところ自覚症状は何もない」と答えている。

その後、残りの全員が静岡空港から米軍輸送機2機に分乗して東京に向かい東大病院と国立東京第一病院に入院したが、被爆線量が多かったことや当時はまだ治療法が確立していないなかで病状も一進一退を繰り返す。

そんななか「こんなことで死ねるか」と強気を通していた最年長の久保山さんが9月23日に放射能症で死亡、40歳だった。

このニュースは地元にとどまらず全世界に大きな反響を呼び、これをきっかけに国内外の原水爆反対運動は大きく盛り上がっていくが、アメリカがひた隠しにしていた新型爆弾の正体は広島原爆の実に750倍以上もの威力のある「水爆」で、皮肉にもその名前は「ブラボー・ショット」だったことも明らかになっていった。

*1950=昭和25年  東京と小田原・熱海・沼津間を結ぶ「湘南電車」が運転を開始した。

それまでは電気機関車けん引の「湘南列車」が運行されていたが120km以上の長距離運転が可能な「80系電車」の導入でスピードアップと在来客車の設備を両立させた。濃い緑の車体と窓周りのオレンジ色の塗り分けはお茶の葉とミカンの色に因むとされるが、国鉄技師長で新幹線生みの親といわれる島秀雄がアメリカのグレートノーザン鉄道の車体からヒントを得てアドバイスしたとも。

新車両の投入当初は<初期故障>を連発、たびたび運休することで“遭難電車”と揶揄されたりしたがやがて安定運転ができるようになっていった。

運賃などはどうだったのかを紹介しておこう。この年から硬券が復活して駅の入場券が5円だった。ところで硬券ご存知ですよね、厚紙の切符です。ようやく復刊した日本交通公社の『旅程と費用』では東京―沼津が「123.5km、所要時間2時間半余、3等230円」、熱海までは「101.9km、所要時間2時間10分内外、3等190円」とあって所要時間に「余」とか「内外」とブレのあるのがおもしろい。

温泉地・熱海だけは「準急湘南電車で1時間半、準急料50円、2等は倍額」とあり<ちょっとはり込むか>という客も結構多かったのだろう。

関連記事