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“7月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1960=昭和35年  東京大学の学術調査隊がペルー中部で南米最古の遺跡を発掘した。

遺跡は首都リマの北東250キロ、アンデス山脈の東斜面の標高1,950メートル地点にある。有名な民謡=フォルクロ―レの『コンドルは飛んで行く』発祥のワヌコ市郊外の川の段丘で現地のケチュア語で「石の小山」を意味する「コトシュ遺跡」と名付けられた。直径100メートルの小山のような石積みで厚さ14メートルに十数層が確認でき最下層から手を交差したレリーフから「交差する手の神殿」と名付けられた神殿遺稿や磨いた石器、母子神像、陶器など多数の遺物が見つかりこの場所は時代を超えて何度も神殿を築き替えた痕跡がある<聖地>であることがわかった。しかもこれまでの定説を大きく上回る南米最古の紀元前1,800年以上と推定され世界の学界を驚かせた。

遺跡を紹介するホームページのひとつを開くと曲が流れて<コンドルに乗って>空から見物した気分になるが当時は行くだけで大変な苦労があった。東大とはいえ資金が乏しかったから日本からは貨物船に乗って南米へ。リマからはジープに乗って高山病を発症しかねない4,000メートル級の峠や悪路を超えてようやく現地へたどり着くまで何日もかかった。発掘の成果は調査隊長だった泉靖一教授のレポートから紹介したが現地へ行くだけでもたいへんなのに地道な発掘をやり遂げるためにはさまざま危険もあったわけでその苦労の一端がしのばれる。

*1799=寛政11年  高田屋嘉兵衛が択捉(エトロフ)航路を開いた。

淡路島出身の嘉兵衛は農民の子だったが18歳で廻船業を志して淡路と大阪を結ぶ瓦船に乗ったのをきっかけに紀州沖でのカツオ漁や酒田への航海などで資金をため、庄内で1,700石積の「辰悦丸」を建造して蝦夷地への廻船業に乗り出した。近藤重蔵や間宮林蔵など幕府の役人にも信用を得て函館に支店を設けた。幕府からの依頼で択捉島への航路を開拓することになり、この日は択捉島から国後(クナシリ)島に戻って来た。両島の間は潮流が複雑で早い海の難所でそれまでは商船の通行は困難とされていたのを見事に乗り切ることで航路が確立できた。択捉島では豊富なサケ・マスの漁場17カ所を開拓し島在住のアイヌを雇って漁法を教え彼らの生活向上に資したことでも知られる。

嘉兵衛33歳の1801=亨和元年、航路開拓や択捉島開拓の功労により幕府から「蝦夷地常雇船頭」に任じられ苗字帯刀を許された。以後、幕府の北方政策に密着した「蝦夷地経営」により指折りの豪商に成長していく。1812=文化9年には幕府によるロシアの測量船「ディアナ号」を松前藩が国後島で拿捕、艦長のヴァシリー・ゴローニンら8人を抑留する事件=「ディアナ号事件」が起こる。その報復として嘉兵衛は国後島で副艦長のピョートル・リコルドにより捕えられた。まったくのとばっちりもいいところだが「ディアナ号」でカムチャッカ半島に連行されてしまう。翌年帰国し松前奉行にロシアは領土侵略の意図はないことを納得させ人質解放に尽力した。

なぜ詳しく書いたかというと2006=平成18年にカムチャッカ政府がロシア地理学会の発案でカムチャッカ半島の3つの無名峰に名前を付けたのを知ったから。驚きましたねえ、それが「タカダヤ・カヘイ」「ヴァシリー・ゴローニン」「ピョートル・リコルド」というじゃありませんか。そう、「ディアナ号事件」の登場人物の3人。それぞれ1,054m、1,333m、1,205mだそうだけど有数の火山地帯だけにひょっとしたら“火を吹く”かも。

余談ながら「タカダヤ・カヘイ」は北緯53度34分50秒、東経158度45分23秒に位置しているからGoogleでのぞいてみては!

*1890年  炎の画家ゴッホ田園に死す。37歳だった。

2日前、27日の日曜日の夕方、宿泊していたラヴー旅館にけがをしたゴッホがふらつきながら戻って来た。早速医師が呼ばれ診察したところ左胸に銃創があり弾丸は心臓を外れたが肋骨のあたりに止まっていて手術はできないので絶対安静にしておくように命じた。同時に医師が兄のテオに手紙を書いたので翌日、パリから到着した。その時はまだ話せたが翌未明に亡くなった。

精神的にも不安定で何度も入退院を繰り返したゴッホだったから自殺説も含めさまざまな説がある。本人はどこでなぜ銃をしかも自分に向けて撃ったのかについては一切口にしなかったが兄の顔を見ると「このまま死んでいけたらいいのに」だけを話したという。
死後に有名になったゴッホだが生前その作品は1点も売れなかった。世話になった農家にお礼代わりにあげた絵はニワトリ小屋の<穴ふさぎ>に使われていたというエピソードがあるほど。90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームでは『ひまわり』が3,950万ドル『医師ガシェの肖像』が8,250万ドル、当時の換算レートで124億5千万円はいまもゴッホ作品の最高落札額だとか。

そうそう、けがをしたゴッホを診察したのがガシェ医師。絵に残るくらいだからゴッホとはきわめて親しかったのでしょう。往診料がいくらだったのか、或いはその代わりに絵をもらったのかなんて下司の勘ぐりはやめておくけれど。

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