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“1月27日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1885=明治18年   ハワイへの官約移民の第一陣946人を乗せた東京市号が横浜を出港した。

「3年間で400円稼げる」、「月給は男15ドル、女10ドル」のうたい文句で大々的に募集が行われた。月給は当時の日本での労賃の約90倍だった。官約とは政府の斡旋した移民で1894=明治27年に民間に委託されるまでに約2万9千人がハワイへ渡った。ところがうたい文句と実態は大違い。サトウキビ畑や製糖工場などでの厳しい労働が移民たちを苦しめ、契約月給から食費など諸経費を差し引かれると手元にはほとんど残らず、休みも週1回取れればいい方だったという。

移民らはストライキなどで立ち上がり雇い主に激しく抵抗したが、やがて彼らの勤勉な働きぶりが認められるようになると日本人の存在評価も上がっていった。出身地域ごとの移民会社が設立され、郷里への送金のための銀行も共同出資で設立されるなど次第にハワイ社会での基礎固めができていった。アメリカ本土に比べて第二次世界大戦開戦後の強制収容も一部にとどまったのはハワイ特有の事情だったとされる。

*1774年  ウィーンでのオペラの大成功をモーツアルトが母への手紙に興奮気味に書き送った。

「バンザイ!僕のオペラ『偽の庭師』はとても受けました。大変な騒ぎでママにお書きする方法がないくらいです」。18歳のモーツアルトは4度目のウィーンへの演奏旅行でオペラ『偽の庭師』を公演した。

1770年にはローマ教皇から黄金拍車勲章を授与され、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出されるなど<若い才能>として注目を浴び始めていた。会場を埋めたのは王侯貴族などをはじめとする錚々たる面々だった。「みなさまには大変やさしくしていただきました」とあるのは公演の出来だけでなくこの日の誕生日を祝福してもらったからかもしれない。

*1219=承久元年  鎌倉幕府の三代将軍で右大臣の源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺された。

雪の少ない鎌倉もこの年は違った。前々日に降った雪がそのまま残り、午後から降りだした新雪がその上を覆っていった。実朝は23歳で権中納言、25歳で権大納言になるとわずか2ヵ月で左近衛大将、前年12月には武士として初めて右大臣に昇任した。異例の官位昇進は「官打ち」ともいわれた。鶴岡八幡宮は父・頼朝が京都の石清水八幡宮から勧請した源氏ゆかりの神社で<晴れの拝賀>は大雪にもかかわらず予定通り行われた。実朝は後鳥羽上皇から贈られた装束に身を包み、御所の庭に咲いた梅を見て「出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」と詠むと同じく贈られた牛車に乗り込んで御所を出発した。八幡宮までの太刀持ちは北条義時で一族郎党の武者千騎がこれに従った。

神前での拝賀の式が滞りなく終わり、実朝一行が本殿を退出して長い石段を降りはじめたその時だった。大銀杏の陰から白装束の法師が「親の仇はかく討つぞ」と叫びながら実朝に斬りかかった。はじめの一太刀は持っていた「笏」で受け止めたが続く二刀目で首をかき取られてその場で絶命した。26歳だった。復路に代わった太刀持ちの源仲章も殺された。凶行の主は前将軍で実朝の兄・頼家の遺児で八幡宮の別当をしていた公暁で、所在を突き止めた義時の配下によって討ち取られた。これで清和源氏の嫡流は終り、尼将軍と呼ばれた頼朝の妻で実朝の母親、北条政子の治世に続いて北条家一門の摂関政治が1世紀続くわけです。

それにしても謎の多い事件ですねえ。めでたい日の出かけにいかにも不吉な歌を詠むというのも首をかしげたくなるし、体調不良を訴えて義時が太刀持ちを代わったのもおかしい。ちょうど一年前に薬師十二神が義時の夢に現れて「来年の拝賀は止めるように」と告げた。それで義時は不思議なこともあるものだと現在の覚園寺の場所に薬師堂を祀った。当日は境内に入ったところで体調不良を理由に太刀持ちを交代したのも警護の武者千騎はオーバーにしてもここまでに襲われることはないと知っていたからか。暗殺場所は本殿内ともいわれる。石段で、が後世の作り話としてもいかにも隙を突かれそうな場所ではある。

*1977=昭和52年  元首相田中角栄被告らに対するロッキード事件の初公判が始まった。

この日、東京地裁で始まったのは丸紅ルートの田中被告ら5人の裁判で、被告全員が起訴事実を否認したのに対し、検察側は冒頭陳述で、丸紅側から5億円を献金するので全日空などに働きかけて欲しいと持ちかけられた首相が「よっしゃ、よっしゃ」と答えたなど生々しい事実を突き付けた。

賄賂を受領する際の領収書に書かれた「ピーナツ・ピーシズ」、首相元秘書の前夫人の発言「ハチの一刺し」、衆議院予算委員会などでの<手の震えすぎるサイン>や毎回繰り返された「記憶にございません」発言が流行語になりました。

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