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ある文芸編集者の思い出  謎の作家、早乙女貢に寄せて  峯島正行

 練りあがった忍法作家

   早乙女貢さんとは前々から、顔見知りではありましたが、親しくお話しするようになったのは、昭和47年早々に創刊した、週刊小説という小説週刊誌の編集に携わることになってからでした。創刊当時の同誌のファイルを繰ると、はやくも第二号の売り物となった忍者小説を発表されています。題して「忍びの草紙・ひとばしら」。同号の巻頭の山田風太郎さんの忍法小説「紅閨参上」と並んで掲載されています。
 この二人だけ並べても、この雑誌の雰囲気が分らないでしょうし、早乙女さんの文壇的位置もお分かりにならないでしょうから、この号の目次面から、執筆陣の顔ぶれを並べてみましょう。連載陣は、柴田錬三郎、黒岩重吾、梶山季之、短期集中連載に笹沢佐保、森村誠一の諸氏、短編小説は北原武夫、藤原審爾、遠藤周作、菊村到さんらが顔を並べ、エッセー、読み物に、佐藤愛子、田辺聖子、安岡章太郎、本田康春、田中小実昌、五味康祐といった顔ぶれが並んでおります。
 そういう人々の中で、早乙女さんはメインの頁をたびたび受けもって下さいました。当時早乙女さんは、時代もの作家として、最も充実されていた時期ではなかったかと思います。
 試みにこの二号に乗った「ひとばしら」という忍者小説を、何十年かぶりに読んでみました。五十枚程度の短編小説としては、バランスのとれた、よく締まって均整のとれた作品でありました。そのストーリーの大筋はこうです。 
猛将を以って鳴る、ある戦国大名の城中深く忍び込んだ忍びの者が、城主が最も寵愛する若い側室のあまりに美しさに驚愕する。深夜の淡い光の中とは言え、忍者の目前で荒武者の太い腕に抱かれた、消えなんばかりの風情の寵姫の磨き抜かれた肌の美しさに魅せられてしまいます。特殊な術を苦心して使って、自ら、姫と交わるところまで行きます。この上ない美女を腕の中にしつつ、忍びはふと、疑いを抱く。城中に召される際に、彼女が処女であることを、神前で特別な占術によって確かめられたはずである。しかし今腕の中に悶える女体は、性の反応の風情と言い、その姿の妖艶さと言い、果たして処女であったのか、と疑いを抱きます。
 それから、そのお連の方という側室の本当の姿を探り始めると、奇怪なからくりがいくつも露わになって行く。その城主と遠交近攻関係にある遠い国の大名から派遣されてきた忍者は、そこから新たな活動を始めるといった物語です。

私は改めて、早乙女さんの小説技術の完璧さと、娯楽性の豊かさに驚いたのであります。
 そこで、手元に置いていた、早乙女さんが直木賞を受賞するはるか以前に書かれたと思われる、二本の長編忍者小説を読んでみました。一つは『死神は黒衣をまとう』もう一冊は『うつせみ忍法帳』という作品です。いずれも時代考証的な目も確かであり、波乱万丈のストーリーのすすめ方と言いい、娯楽小説としての完成度は相当のものでした。
 考えてみると昭和30年代初めは、五味康祐の芥川賞作品『喪神』を出発点とし,同じ五味さんの柳生武芸帳、柴田錬三郎さんの、「眠狂四郎」などなどに象徴される剣豪小説の時代でした。   
昭和40年ごろ、山田風太郎さんの忍法小説十巻が刊行されてから、剣豪小説に代わって、忍法小説のブームが起こり、時代を画するわけですが、早乙女さんも風太郎さんと並ぶ忍法小説の優れた書き手であったと思います。早乙女さんの作家としての本質は、ここにあったと思います。
 忍法小説といえば、私はそのブームを生んだ功績者の一人だと自負しているのですが、昭和34年の夏、「週刊漫画サンデー」という雑誌が創刊されまして、最初、私が編集の任に当たることになりました。この年は出版社の週刊誌発刊ブームの年で、それまで出ていた「週刊新潮」と「週刊女性」を除いて、出版社発行の週刊誌は、この年に創刊されたものが多かったのです。 漫画誌と言っても当時は、半分が漫画で、半分が普通の娯楽週刊誌と同じような内容でした。だから小説も二本乗せることにしたのです。その一本を山田風太郎さんに頼みに行ったのでした。
 山田さんは、忍者小説なら書いてもいいというお話でした。
「僕は去年、面白倶楽部に「甲賀忍法帳」という小説を連載しました。これから十作ぐらい忍者小説を書いていけば、世間も忍者小説、さらには忍者小説家の存在を認めてくれるのではないかと思っているのです。だから忍者小説を書きたい」
と山田さんはおっしゃるのです。私も、先生の気持ちに協力したいとおもいます、と答えました。そうして始まったのが、「江戸忍法帳」でした。翌年引き続き、「飛騨忍法帳」さらに「忍法忠臣蔵」と連載したのです。「忍法忠臣蔵」を始めるとき、作者の言葉として次のような文章を残されています。

――私は徹頭徹尾荒唐無稽の面白さを創造するために書く。……本誌が創刊以来二年有余、その間三度の連載は作者の名誉と心得て、ぜひ面白いものを書きたい――
 
この後も「信玄忍法帳」とか「伊賀忍法帳」「軍艦忍法帳」などを連載したと思います。
その間に、山田さんは忍法小説の第一人者と知れわたり、大流行作家になられています。私の雑誌の忍法ブームへの貢献度は大きかったと思うのですが、漫画週刊誌に連載されたためか、多くの忍法小説論、解説文などに初出誌として言及してくれる人はおりませんでした。ほとんど無視されています。解説文で初出誌の名前を出してくれた最初の人は、日下三蔵さん(文芸評論家)でした。
 こういうわけで、忍法小説ブームの一端を担ったつもりです。
それはともあれ、早乙女さんの忍法小説も、徹底した荒唐無稽さにおいても山田さんの作品と拮抗する迫力満点の作家でした。ただ、山田さんは解剖学的な面に特徴があるのと比べて、早乙女さんのそれは、男女の官能の面においてすぐれていると思います。

 
自己矜持と自己秘匿

早乙女さんという人物を知ったのは、銀座の文壇酒場の雄と言われた、クラブ「眉」においてでした。それは、昭和43年、早乙女さんが、『僑人の墓』で直木賞を受賞されたころです。ある夜、誰かと飲んでいるとき、テーブルの下に何かを落としたので拾おうとして、顔を床下に近づけたとき、ふと顔を隣席のほうに向けると、長尺の真っ白な羽二重のマフラーを床に流すように垂らしている男が、隣の席に座っているのが、分りました。起き上った私はその男の顔を見ました。口を「へ」の字に結んだ凄味のある目つき、傲然と顔を上げ、派手な服装の襟から白いマフラーを垂らしているのです。私に付き添う女性に聞いた。
「あの男は何者」
「あら御存じないの、この間直木賞を戴いた早乙女先生よ」
晩年の早乙女さんは優しい目つきの人だったが、その日の早乙女さんは、凄味があるというか、気張っている感じでした。
 それからよく酒場で見かけるようになりました。ある時から和服の素合わせの着流しに雪駄という姿に変わりました。そのころは、川端康成さんとか、高見順さんとか、まだ和服を着こなしている作家が幾人もいましたが、その向こうを張ったつもりで、そういう姿をして見せたと勘ぐったりしましたが、それにしても、気張った服装をなさる人だなと思いました。
 しかし日が経つにつれて、だんだんとそれが身について、落ち着いて見えるようになっていったのだから、不思議なものです。着流しを世間に納得させてしまったわけです。そのころ誰かに紹介されたのでしょう、私も、早乙女さんと口をきくようになったのです。
早乙女さんは自己矜持の精神というか、一種の負けじ魂から、わざと人の目につくように振る舞っておられるのが、次第に分かってきました。
 これはのちに童門冬二さんが書いているのですが、童門さんが早乙女さんたちと同人雑誌「小説会議」をやっていた三十代の前半の頃、早乙女さんは、引っ越し魔だったといいます。引っ越し先に選ぶのはその土地の豪邸に限っていて、そこで間借りするのです。そして常に、家主より、でかい表札を門にかかげたと言います。その後、其処此処に東急アパートという鉄筋の大きなアパートが出来始めました。今でいう高級マンションの走りです。早乙女さんは代官山に東急アパートが建つと、早速入居したそうです。直木賞を受賞した後、第一生命が資本を出して、それこそ高級マンションを標榜した建物が南青山に建つと、そこに越しました。そこにはもう一室買って、二軒、逝去されるまで持っていられたのです。
しかし、早乙女さんの生い立ちと、私生活のことは、早乙女さん自身が洩らさなかったため、今日まで、よく分らないのです。あれだけの大作家でありながら、その日常が分らないというのは、不思議です。今日でも謎とされています。
 早乙女さんの作家としての年譜もあります。ある時期までの年譜は、早乙女さん自身が書いたものしか、公開させませんでした。その年譜は直木賞受賞前後から始まっているのです。それ以前、どんな作品を書いたか、年譜を見る限り不明です。
 作家とは自己顕示欲が強いというのが普通だと思います。だからこそ作家になったといえます。自伝は書かなくても私小説の類、あるいは小説の中に幼少期の体験等が書かれていて、周囲の人や研究家には大体の生い立ちやその生活ぶりなど、およそ見当がつくものです。ところが、早乙女さんに限り、それが分らない。謎なのです。ある評論家が「先生はなぜ、ご自分のことをお書きにならないのですか」と聞いたそうです。すると、早乙女さんはこう答えたそうです。
「おれは物語作家だぞ。架空の面白い物語を作るのが仕事だ。自分のことを書いている暇に、構想を逞しくした物語を書くのが俺の仕事だ。自分のことなど書いている暇はない」

私生活も誰にも見せない。奥さんも人前に出さないし、語らない。私の知っている人で奥さんと話をした経験のあるのは、後年、三十年かけて完成させた大作『会津士魂』の担当編集者、元新人物往来社の高橋千劔破さんだけです。
 だから編集者が原稿取りに行っても、うちに入れない。入り口のドアの前で渡すだけです。私も、南青山のお住まいのマンションを訪ねましたが、たいてい玄関のドアの裡に立って話をしておしまいでした。とくに重要な話、例えば新連載の相談とかがあるときは、玄関を上げて、入り口の部屋に入れてくれましたが、板敷きの広い部屋の片隅に小さなテーブルとイスがあって、早乙女さんがいれてくれたお茶一杯だけで、そこで話をする。「じゃ今度、『眉』ででもあった時に詳しい話をしよう」二、三分話したら、立あがるという具合でした。
 作家が編集者に、原稿を渡すときは、出来上がるまで自宅で待たすのが普通ですが、早乙女さんの場合はそんなことはしない。銀座のクラブなどで待たせておくことが常にありました。銀座のクラブ「数寄屋橋」には原稿待ちの編集者の座る席が決まっていました。やがて早乙女さんが現れるのだが、最後の部分が書ききれてない場合も多い。早乙女さんがその残った部分を書く椅子も決まっていました。
時にはパーティー会場の入り口で待たせられる編集者もいました。パーティー会場の入り口に近いテーブルで、原稿最後の部分を書いている早乙女さんを見たこともあります。このように私生活に編集者を近づけることはなかったのです。
その生い立ちをたどる

早乙女さんが書かれた随想風の文章や、周囲の人に漏らされた話をまとめて、その生い立ちについて、分っていることだけを記します。早乙女さんの祖父は会津藩士で戊辰の役で戦ったらしいのです。朝敵の汚名を着せられ、戦い敗れた後、アメリカに渡ったらしいのですが、一度日本に帰国し、それから中国大陸に渡り、最後は上海のフランス租界で、洋酒商を手広く営んだといいます。お父さんは外交官として、中国各地で任務に就かれたとされています。
 早乙女さんが生まれたのは、中国東北地方(旧満州)のハルピン市ボレツヤ街という所らしい。1926年1月1日に生まれ、太閤秀吉にあやかって秀吉と名付けたといいます。だから早乙女さんの本名は,鐘ヶ江秀吉です。 誕生から半年後、お母さんは結核のため大連の病院で亡くなりました。早乙女さんは、少年時代から蒲柳の質で、徴兵検査も丙種合格で、徴兵が免除されたと自ら書いています。おそらく早乙女さんが徴兵検査を受けたのは、昭和19年か20年、19歳の時と思われます。戦争も末期で手足さえ動けば、兵隊にとられるという時で、徴兵が免除されるというのは肺結核系の病気であったかもしれません。戦時下の当時としては、男として、恥ずかしいことだったと思われます。
 しかし成年後は丈夫な健康体になったといいます。常々我々には俺は医者なんかにかかったこともないし、健康診断もしたこともない、それでもこの通りの健康体だ、俺は150歳まで生きる、と豪語していました。実際亡くなられる直前まで医者にかかったことがなかったと言います。
最後の時は、さすがの早乙女さんも体調の異変には耐えられず、自分で病院に電話をかけて、車を呼び、一人で入院したそうです。それから約一か月で、世を去ったのでした。その半年前に夫人も逝去されていたことも、その時にわかったといいます。それも誰も知らなかったのです。
 
早乙女さんが生まれた頃のハルピンは、ロシア革命を逃れて流れ込んできた白系ロシア人が多く住み、多くの旧貴族もいたといいます。それにソ連との国境も近かった。だからハルピンはハイカラな国際都市でした。祖父の生涯といい、本人の育ちといい、なかなかのエトランゼです。後年早乙女さんが時代作家でありながら、案外、国際的な活動をしたのは、そういう育ちからもきているのでしょう。
早乙女さんに、会津魂を植え付けたのは、祖母だと早乙女さんは言います。祖母は母のない孫に武士のしつけを施し、会津の魂を受け継がせたと早乙女さんはいっています。
 おそらく満州から、敗戦後引き揚げたのは確かだろうが、引き揚げ体験の記録は何もない。内地へ戻り、福岡、博多に住んでいたことは確かです。
早乙女さんが書いたものによると、帰国して一年半ほどたったある日、博多湾岸の大浜というところで、立て看板に、懸賞小説募集と大きく出ているのを見たそうです。よく見ると九州文学関係者が出していた「叡知」という月刊誌の広告で、その雑誌で新人の原稿を募集をしていたのです。石川達三、火野葦平、石坂洋二郎といった人たちが、選者でした。
早乙女さんは、これに応募。広告チラシの裏に下書きを書いて、福岡の鳩居堂で買った原稿用紙に清書して七,八十枚の小説を仕上げて、「暁闇」という題をつけて、送ったといいます。鳩居堂の原稿用紙といえども、当時は仙花紙だったそうです。
これが佳作第1席に入選した。入賞作はなく、この作品が誌上に乗ることに決まりましたが、その雑誌が突然廃刊になり、ついに日の目を見ることがなかったのです。終戦直後はこんなことがよくありました。早乙女さんは原稿を取り返しに、旧編集室に行きましたが、どこに原稿が行ったのか、ついに分りませんでした。「暁闇」はここに、幻の処女作になってしまいました。こうしてみると、恐らく少年時代から、文学に対する強い夢を持っていたのでしょう。
 「早乙女貢氏の作家生活五十年を祝う会」が、平成16年に開かれましたが、そのときのパンフレットの第一ページに昭和22年5月に撮影したという写真が載り、「無頼の二十代」と題したコメントを書いています。「町には闇市があり、まだ軍服姿があふれ、パンパンが歩いていた。文学への志を抱きながら彷徨の青春は、また無頼と絶望の日々であった」と書いていますが、小説を応募したのもその頃でありましょう。
またその頃、戦前上映されたフランス映画をよく見たということです。熱心に見たのは、ジュリアン・デヴィヴィエの作品だといっています。「望郷」、「モンパルナスの夜」、「商船テナシチー」、「舞踏会の手帳」、「白き処女地」、「旅路の果て」、などなど。これらの映画は当時の若者の心をとらえ、そこに染み出ているヒューマニズム思想に影響を受けたのでありましょう。

 

師と仰いだ山本周五郎

晩年の著『わが師山本周五郎』という本に、昭和27年、つまり27歳ごろから、山本周五郎を横浜の間門(かどま)の仕事場に、月に二,三遍訪れて教えを乞うたと書かれています。最初は、ある編集者に誘われて訪れたのだが、気に入られて、これからも遊びにいらっしゃいと言われ、訪れるようなになったそうですが、弟子入りして文学修業といった気持ではなく、もっと軽い気持ちで通った、と早乙女さんは言います。周五郎さんも、身内の人のように感覚で接してくれたと書いています。時に、横浜駅前の「舶来居酒屋」というなじみの店に連れていかれることもあったそうです。
この本によると、早乙女さんは昭和31年ごろ、父親が病気をしていると師匠に報告したと書かれておりますが、父親が当時まだ存命だったわけで、満州から一緒に帰国していたのでしようか。
山本周五郎との別れにについて早乙女さんは次のように書いています。
「僕は周五郎さんから小難しい文学論を聞かされたことはない。ただ、一緒に食事をしたり酒を飲んだりしながら、山本周五郎という作家の生き方や見識を学び、そして、その精神に直接触れることができたことが一番の収穫であったと感謝している。
………ぼくの場合は創作以前の人生観や文学観にどうしても相容れないところがあり、結果的に離れざるを得ないことになる。
それまでは出来上がった作品を持ってゆくと一応読んでくれたりしていたのだが、最後の頃には余りに手厳しく貶されたこともあって、こちらも売り言葉に買い言葉で応酬し、表面的には、喧嘩別れのようになった」


「小説会議」の頃

 早乙女さんの名前が文壇的資料に登場してくるのは、山本周五郎のもとに通い、昭和30年代に、同人雑誌の仲間に入って、毎号作品を発表するようになってからのことです。その同人雑誌は「小説会議」といいました。
そのころ講談社の講談倶楽部に、講談倶楽部賞という賞があった。そこから有望な新人が輩出しました。講談倶楽部の副編集長の高橋加寿男が編集長の斉藤稔に諮り、その受賞者、佳作入選者を集めて、昭和31年に新人育成を目的に「泉の会」という会を発足させました。
最初は、会員各自が持ち寄った作品を朗読して、批評しあうということで出発しましたが、その方法では運営がうまくいかないというので、そこから同人雑誌の発行に事は進みました。同人の中心になったのは、講談倶楽部の新人賞を受賞した、池上信一さんで、同人に伊藤桂一、早乙女貢、太田久行(童門冬二)、生田直親、井口朝生(山手樹一郎長男)、福本和也、村上尋などのがいました。のちに尾崎秀樹さんも伊藤桂一氏のすすめで加入します。
普通の同人雑誌と違って、これらの人々はそれぞれ作品を既に発表しておりましたし、それぞれがいっぱしの職を持った人々でした。尾崎秀樹さんは、この仲間で、「筆一本で生活していたのは早乙女だけだった」と書いています。早乙女さん自身も、雑誌や新聞の、懸賞募集に応じて賞金を稼ぎ、娯楽雑誌の小説などを書いて暮らすようになった、と同人雑誌を始める前の生活の一端を漏らしています。
早乙女さんは、また「それまでは放蕩無頼の生活をしていたが、同人雑誌にはいってからは、勉強するようになった」と言っています。その生活の実態はわかりませんが、この同人雑誌に入る頃は、相当、文学に打ち込んでいた事は確かでありましょう。そのころ、直木賞作家で、久留米二十一万石の大名の後裔、有馬頼義さんのところにも、若い作家が集まり、勉強会を開いていた。そこ集まったのは、渡辺淳一、五木寛之、後藤明生、高井有一、萩原葉子(朔太郎長女)、色川武大、三浦佐久子といったメンバーで、早乙女さんはこの会にも参加しておりました。今から見ればそうそうたる顔ぶれです。「石の会」と名付けられていました。
「小説会議」に掲載した早乙女さんの小説は力作ぞろいだったことは次のことからもわかります。、昭和41年、同誌に載った「鬼の骨が」が直木賞候補になり、また翌昭和42年に掲載された「叛臣伝」も、直木賞候補になったのです。そして、以前に「小説会議」に発表した、明治初年に起きたマリア・ルーズ号事件に取材した小説を書きなおして、長編小説、『僑人の墓』を講談社より出版、これが昭和44年、第六〇回直木賞を受賞したのです。時に早乙女さん43歳、遅咲きながら、すでに質力は十分なので、忽ち流行作家として文壇を闊歩することになります。


倶楽部雑誌に発表の作品群
   
ところで早乙女さんの年譜は、ご自身の書いたもの以外、掲載を許さなかったことは前述しましたが、その自作の年譜は、ハルピン市ポレツヤ街で生まれた以降、直木賞候補になった昭和41年までの、経歴は略としている。経歴や日常を秘していたことについて、伊藤桂一氏は、「大衆文学研究」誌の早乙女貢追悼特集で次のように書いています。
「早乙女さんは私にとっては身近な存在だったが、ふしぎに存在の実体感はない。手をのべてつかんでも、つかめないのである。人とのつき合いは、相手をあまり理解する必要はない、という考え方もある。自分を守備することも大切なのだ。人を近付けないために争わずして、上手につき合う法もある。人それぞれみな孤独なのだ」
 私も伊藤氏の言葉に同感です。

早乙女氏の「丹前屏風」を掲載の新年特大号 早乙女氏の「丹前屏風」を掲載の新年特大号

 ところで、尾崎秀樹さんは、「小説会議」の頃の思い出の中で、先に述べたように「同人中、筆一本で生活していたのは早乙女一人で、かれは当時の倶楽部雑誌の王者だった、と述べています。
 倶楽部雑誌に発表したとすれば、それは読者もあり、ファンもあり、作品はすでに社会的な存在であります。
私生活については、伊藤氏の言葉通りであるとしても、世の中に生み出された作品は、作品として研究の対象に当然なるべき存在と言えましょう。そう考えた私は、倶楽部雑誌に発表された作品を辿ってみることにしました。昭和30年代には、講談倶楽部(講談社)、面白倶楽部(光文社)は別格として、多くの小出版社から夥しい倶楽部雑誌が発行されていました。インターネットを駆使して調べていくうちに、早乙女さんは,双葉社から発行された倶楽部雑誌に、多くの小説を発表していることが分りました。早乙女さんの小説が掲載されている雑誌数冊を探し出し、手に入れました。

倶楽部雑誌が全盛をきわめた昭和30年代 倶楽部雑誌が全盛をきわめた昭和30年代

 その雑誌と掲載作品を紹介してみましょう。

 誌名     発行元        発行年月           早乙女作品名    挿絵画家
読物と講談  芸文社  昭和三十年十一月特別号   夜鷹狩り    高柳雅春 
大衆小説   双葉社   昭和三十年九月号     さむらい鴉   谷田貝寿広 
傑作倶楽部  同     昭和三二年新年号     丹前屏風    平野林作
同      同     昭和三九年九月号     風魔忍秘抄   富賀正俊
同      同     昭和四十年五月号     白夜の群盗  土端一楊 

時代小説の広範な読者が倶楽部雑誌を支えた 時代小説の広範な読者が倶楽部雑誌を支えた

以上私の手に入れた数冊の倶楽部雑誌により推測すれば、この昭和30年頃から40年頃までのほぼ十年間、これ以外にどれだけ多数の、小説を発表されたか分らないといえます。これらは単行本になっているものも多いのです。私が手に入れた単行本は、『戦国恋編笠』『黄金秘帖』『黒潮姫』(いずれも同光社刊)などがあります。いずれも昭和32年以前に発行されたものです。『黄金秘帖』は古本の価格で四千円していました。この本がどこからも再刊されなかったからでしょうが、早乙女さんは、昭和30年を過ぎた頃の大衆娯楽小説の世界でスターになっていたということがよく分ります。
 私は丹念に、上記の表にある倶楽部雑誌の小説を読んでみました。すでに昭和30年の作品から、娯楽時代小説として完成されているのに、驚きました。年が経つにつれて構成が次第に緻密になり、背景となる歴史的事実も豊富になってゆくのでした。
 いつ早乙女さんは勉強をしたのだろうと驚くくらいのものでした。おそらく、書きながら、文章の腕を上げ、史料的な勉強をしたのでしょう。
 とにかく不明だった早乙女さんの直木賞以前の業績をして私は驚嘆したのです。
 

メジャーとマイナー
     
 私は昭和47年、それまでやってきた漫画の雑誌の編集から手を引き、新たに「週刊小説」の創刊、編集にあたったことは、冒頭に申しあげたとおりです。それから、1年ぐらいたった時です。早乙女さんから、至急会いたいという連絡がありました。早乙女さん指定の場所でお目にかかったのです。早乙女さんは、緊張した面持ちで,以下のような事をおっしゃるのです。
「君の雑誌に『Z』という男が書いているだろう。君の雑誌の目次に、彼の名前と並んで、俺の名前が出ることは、俺は許せないのだ。俺が小説を書くのは、人間的な志を持っているからだ。そこには一つの怨念と理想があるのだ。ただ金儲けのために、原稿をかいて食って通ればいいという、二流の人間と一緒にされては、迷惑なのだ。それに、ああいう人間の名前を出すことは君の雑誌にとっても、マイナスじゃないか。それをこの先も、もし彼に書かせるなら、俺は今から君のところと縁を切る」
 という話でした。
『Z』さんに原稿を依頼したのは、いろいろの意味で、恩義もあるし、義理もある人から、彼が主催するある文芸団体の代表として、『Z』さんの執筆を執拗に頼まれたからです。しかし、私はその種の人の作品は載せない方針だと、拒んでいたのですが、その人と今までの関係を盾に、なかなか引いてくれないので、ある案を考えて、その案で短期間なら、という返事をしたのです。
私の案というのは、犯人宛懸賞小説と言うもので、短い推理ストーリーを書いて貰い、その犯人を読者に当てさせるという懸賞で、そのストーリーを書いてくれるなら、掲載すると返事をしたのです。こうして懸賞の出題者として、小さく名前が出る程度なら、一応短期間だし、雑誌の内容として、問題はないと思ったのです。
 それでも早乙女さんから抗議が出たのです。早乙女さんの真意は、要するに、自分は大リーガーであって、歴とした文壇人である。大手の雑誌に書いたこともなく、文壇からはみ出てしまって、マイナーの世界にいるものと、一緒にしてもらうのは自分の矜持が許さないということかもしれません。
 半ばやむなく始めた原稿を、重要な作家からクレームがついたのですから、私のとる道は自ずから決まってきます。
 ここで翻ってみるとき、かつて、早乙女さんが、倶楽部雑誌に書いている当時は、『Z』さんの方が、その世界の大家であり、先輩だったわけです。そして、主役の奉行が、事件の決着の度に片肌脱いで白州で啖呵を切るというテレビドラマの原案者として、ある程度知られた人だったわけです。
私はこの度、『Z』さんのある長編を改めて読んでみました。なかなか面白い、きちんと構成された手練れの小説でした。
 それがどうして早乙女さんが、大リーガーで『Z』さんがマイナーになってしまい、世間もそれと、認識するようになったのでしょうか。
 いろいろの理由が挙げられますが、大筋は以下の通りだと思っております。


倶楽部雑誌の世界
   
昭和31年には「経済白書」がもはや戦後ではないと書きました。日本が経済成長の波に乗り始めた頃です。その前後を振り返ってみましょう。まだ戦前、戦後の事象が残っていました。そのころの小説はいかに読まれていたか。新聞小説に人気があり、読者の話題にもなりました。ここで小説と言うのは純文学のことではなく、大衆文学、エンターテインメントの昨品をさします。
 そのほかに雑誌の小説欄もありました。とくにこの頃は、「中間小説」という立場を標榜した大出版社の小説雑誌も人気が出ていました。新潮社の「小説新潮」文春の「オール読物」を先行とし、小学館、学研なども中間小説雑誌を出し始めます。中間小説のそもそもの始まりは、純文学作家により、大衆に親しまれるエンターテイメント性の強い小説を書いて貰うということになっていたため、やや高級感は免れませんでした。一番、大衆的というか、涙あり、チャンバラあり、お色気のある小説の舞台は、当時台頭著しかった倶楽部雑誌ということになります。
 倶楽部雑誌といっても、かつての「講談の筆記」以来の伝統を持つ講談倶楽部、光文社の面白倶楽部は別格として、数かぎりなく倶楽部雑誌、その類型の雑誌が、中小規模の出版社から、出されていました。その代表的なものは双葉社でした。同社出身の出版研究家、塩沢実信さんの記述から、同社の倶楽部雑誌についてみてみましょう。
 双葉社は倶楽部雑誌とその類似誌を十種類ほど出していました。「傑作倶楽部」「読み切り傑作倶楽部」「小説の泉」「大衆小説」「剣豪列伝集」と、多彩でした。しかもそのほか、別冊、特集号を出すから、間断なく雑誌が出ていました。各誌表紙こそ違え、内容は同工異曲、同じような作家の顔ぶれでありました。
 これは、双葉社の当時の社長の戦略方針であったといいます。塩沢さんは
「これをキャラメル商法と名付けていた。一箱に二十粒入ったキャラメルは一粒一粒同じ味だが、顧客は喜んで口に入れる。双葉社で編集する十数誌の雑誌はこのキャラメルと同じで、誌名と表紙が異なるだけ、執筆者と内容はほとんど同じでも、読者は読んでくれるという考え方だった」と書いている。
 双葉社のほか、芸文社とか桃園書房とか、三世社とか、いろいろの出版社で、「小説倶楽部」、「読物と講談」「小説と講談」「オール読切」「読切雑誌」などなど、覚えきれないほどの倶楽部雑誌が出版されました。この枕のように厚い雑誌が駅の売店に並び、時には路上の茣蓙のうえで.十冊で幾らというように叩き売りされているのを見たことがあります。
 倶楽部雑誌にもピンからキリまであったことは確かでしょぅが、標準的な編集方法は、文壇的に有名作家の名前をまず中心におく。例えば山手樹一郎、源氏鶏太、村上元三、角田喜久雄、富田常雄、川口松太郎、柴田錬三郎など。 
この人たちの作品は確かに掲載されてはいますが、その殆どが、かつて発表された作品の再掲載でありました。書き下ろしはほとんどない。いわゆる二番煎じです。古い作品を、安い稿料で掲載させてもらうのです。
つぎに、娯楽小説のベテラン、彼らは倶楽部雑誌の仕事を沢山しているこの世界の大家たちです。思い出す順に作家を並べて行くと、陣出達郎、江崎俊平、風巻玄一、颯手達治、下村明、多勢所尚一郎、郡順史、宮本幹也、城戸礼、木屋進、左門寺雄策といった人々です。次に無名の新人たちです。その作品は編集部に持ち込まれる作品が多い。早乙女さんの場合もおそらく、最初は新人であったでしょうが最後には、この世界で人気作家となったのだろうと思われます。
この世界、つまり倶楽部雑誌専門の作家は、大手の新聞雑誌に執筆することが、ほとんどない。だから原稿料も安い。私たちが若いころ、その世界の若手は三百円作家と軽蔑されていたのを聞いたことがあります。原稿料が一枚三百円という意味です。


民衆に愛された貸本屋
 
雑誌や新聞に掲載された、小説は当然単行本化し、新たに読者に提供される。もちろん書き下ろしの、小説の単行本も発行されます。それらは多くは、本屋のルートで読者に買われる。あるいは図書館で読まれます。
当時は、もうひとつ大きなルートがあったのです。それは貸本屋ルートです。
子供漫画の貸本ばかりではなかったのです。漫画と同時に大人の小説の貸本屋も栄えた時代があったのです。昭和20年代末から40年代頃まででしょう。貸本屋の数は、最盛時、日本中に十万軒、東京都内だけでも、三千軒あったといわれます。貸本屋のことは、菊池仁氏の『ぼくらの時代には貸本屋があった』及び末永昭二氏の『貸本小説』を読むと詳細が分かります。
貸本屋はたいてい街の中の、仕舞屋をちょっと改装したような小さな店で、その家の小父さん小母さんが、店番しているようなごく庶民的なものでした。そこに行って、今でいう運転免許証とか保険証とか、身分を明らかにするものを持って行き,会員になります。それから、本を借りるわけですが、借り料は一日、本の定価の一割程度だったとおもいます。本好きの男女の庶民たちが、顧客でした。
貸本屋にはもちろん、一般の人気作家、流行作家の作品も勿論並びますが、ここには、貸本専門の本も並びます。貸本専門の作家は、ほぼ倶楽部雑誌専門作家と同一人物と言ってよいでしょう。
同時に貸本目当ての出版をする出版社もありました。桃源社、東京文芸社などは普通の出版の傍ら、貸本向けの出版もやっていました。また同光社、大和出版といった貸本専門の出版社もあったくらいです。
倶楽部雑誌や貸本の制作の基本は、一にエログロ、二にアクション、三に義理人情、四に舞台が江戸の町、と言えましょうか。義理人情に絡めた剣劇小説の流行は、東映のチャンバラ映画の隆盛次代とパラレルな関係にあると思われます。
当時の時代劇スターは、大河内伝次郎、坂東妻三郎、市川右太右衛門、片岡千恵蔵、長谷川一夫、の大スターに加えて、中村錦之助、東千代之助、大川橋蔵、市川雷蔵などなど若手が全盛を誇っていました。


週刊誌時代の到来と新「文壇」の形成
   
さて時代の動きは、これらの倶楽部雑誌や貸本が滅びていく事態が昭和30年代後半から、40年にかけて生じてきます。
その背景には日本経済の高度成長が進み、生活が日常的にも情報的にも豊かになったことがあります。三種の神器といわれた、電気器具、テレビが普及し、電話も各戸に行き渡ります。万事がスピード化し、庶民の娯楽、情報の受け方も、変わりました。
その結果、出版ジャーナリズムにも大きな変動が起こります。それが倶楽部雑誌や貸本を追いやっていったのです。昭和37年の講談倶楽部の廃刊は、その象徴とも先駆けともとられると思います
出版ジャーナリズムの変動の第一は雑誌が週刊誌時代に入ったことです。昭和31年、週刊新潮、週刊女性が創刊され、その成り行きが出版業界で注目されましたが両誌とも、編集、印刷の面の難題を克服して、無事発行を続けました。そのせいもあり、時代の要請もあり、昭和34年大手出版社が、一斉に週刊誌を出し始めます。それぞれ社風に合った特色を持たせ、文藝、その他の面でも週刊誌連載から、多くの人気作家、人気作品を生み出しました。
五味康祐、柴田錬三郎、松本清張らを先頭に、小松左京、筒井康孝、五木寛之、笹沢佐保、生島治朗、三好徹、佐野洋など次代を担う作家が輩出してきます。早乙女さんも勿論その一人でありました。
一方、かっぱブックスという新書版の軽装本で、松本清張の『ゼロの焦点』『点と線』など、いわゆる社会派推理小説を売り出したところ、忽ち大ベストセラーとなり、他社も新書版の推理小説発行を始め、推理小説ブームを巻き起こしました。
 中間小説雑誌は、従来からの「オール読物」「小説新潮」に、講談倶楽部に代わって講談社から創刊された「小説現代」が加わり、さらに週刊誌で活躍する作家を主体として、徳間書店から「問題小説」が出され、さらに後年になると、我々の「週刊小説」までも加わり、膨大な小説の生産と、読者層を形成していきました。 それらの、マスコミで活躍する作家、画家、エッセイスト、それから漫画家、ノンフィクション作家、デザイナーまで含め、それに編集者が加わって、一つの文化人の塊が自然に出来ていったのでした。これを大きな意味で「文壇」と呼ばれるようになったと思います。
 「文壇」という言葉は本来そういう意味ではなかったのです。昭和31年、十返肇さんが、「文壇崩壊論」という文章を発表して、話題になったことがありましたが、この場合の文壇というのは本来の意味での文壇でありまして、それはいわば明治以来の純文学の世界のことでありました、白樺派とか自然派とか、そういう世界の話であって、大衆文学にはあまり関係ない世界のことでした。 昭和40年代に出来上がった、芥川賞作家も直木賞作家も含めたマスコミで活躍する作家の集団、それを取り巻く文化的で創作的な仕事をする沢山の人びと、そういう人々の大きな集団というか、グループが自ずから形成され、それを「文壇」と呼ぶようになったと思います。これは階層的ではありますが、体系を持たないルーズなひとつの社会集団ともいえると思います。
この文化人の塊を、より具象化する力となったもののひとつに、「文士劇」というものがあります。これは文藝春秋の宣伝、読者サービスのために、自社の雑誌に登場する執筆者に芝居をさせて、読者や他の執筆者に見せるという行事です。主催社の方針によって、文士劇とは言いながら、出演者を小説家に限らず、挿絵画家、漫画家、評論家など執筆者全部の中から出演者を選びました。出演しない執筆者は、招待者として招いたのです。
こうして楽屋と客席が一体になって、ひとつの雰囲気を作り出していきました。その楽屋には銀座のクラブやバーのマダムや女性たちが、楽屋見舞いと称し酒や食べ物を持っておしかけ、楽屋はお祭り騒ぎとなりました。こうして公演が終わると、みんな銀座に繰り出し、ドンチャン騒ぎとなります。その間に、お互いの連帯感が生まれていったわけです。
 徳間書店がのちに、文化人歌謡大会というのを毎年開催して、文壇人現象に拍車をかけたといえましょう。この大会も終われば、文士劇と同じような騒ぎでした。
 不思議なことに、この文化人たちが通う酒場、クラブはおのずから決まっていったことです。エスポワール、おそめ、眉、ラモール、魔里、姫、数寄屋橋、エルなどなど。そこは文化人の社交場になり、時には仕事場にもなりました。そこで飲むうちに次第に連帯感から仲間意識に進み、ここに「文壇」という新しい、無意識の職能連合体を強化させていったと思います。野坂昭如さんは奇しくも「文壇に出るということは文壇バーに行けることだ」と言いました。これは象徴的な言葉と言えましょう。
大出版の刊行物に、ものを書く各人は、だいたいその仲間であり、書かない人は、アウトサイダーということになったといえます。

 さてそうなると、あの沢山の倶楽部雑誌作家はどうなったのでしょう。結局彼らは、マスコミを形成するいわゆる「文壇」から取り残され、その外側で生きていくほかなかった。いわば文壇周辺人と化していったのです。
人間というものは悲しいもので、マイナーはマイナー同士の交流に向かい、そこにひとつの意識の型と生活を生み出し、一種の人間のタイプもできていったような気も致します。お互いの連帯感もできて、それがいくつかの文芸団体を、残してゆきました。
彼らの小説を、旧作、新作を含めて、出し続ける出版社もなくはありませんでした。明治以来の古い出版社の後裔である、春陽堂の春陽文庫に彼らの作品は、ほとんど収容されています。
その人たちは、文壇の主流たるマスコミに執筆することはほとんど稀となってしまったのです。
 

たった二人の人物

マイナーたる運命の、倶楽部雑誌作家から、大リーガーの、しかもスターになった人が、たった二人だけいます。すなわち、早乙女貢さんがその一人です。直木賞受賞を契機に、長年蓄積された才能が、大きく開花したわけです。
もう一人は、何と色川武大さんです。色川さんは、麻雀小説を書くときは阿佐田哲也ですが、時代小説を書くときは、井上志摩夫というペンネームでした。前期の表で、早乙女さんが「百夜の群盗」という小説を書いている傑作倶楽部昭和四十年五月号の巻頭に「人切包丁」という力作が書かれている。
 聞くところによると、井上志摩夫傑作時代小説全集五巻が刊行されているそうです。つまり、色川さんは、三つのペンネームを持ったマルチ作家だったのです。
 昭和37年、中央公論新人賞を取った後、博打ばかりうって、ぼろズボンにちびた下駄で、放浪生活をし、うろつきまわっていたといわれていた色川さんだが、その時代に、実は、倶楽部雑誌の時代小説を書いて、実力を養っていたことは間違いないでしょう。

 早乙女さんが、だれだれと席を同じくしない、と私に迫ったのには、以上のような深い長い背景があるのであります。
         本校を書くに当たっては、早乙女貢氏の著作の他、ここ数年間の「大衆文学研究」、手に入った倶楽部雑誌類、多くの娯楽時代小説の単行本、塩沢実信氏の『昭和の出版史』 菊池仁氏の『ぼくらの時代には貸本屋があった』末永昭二氏の『貸本小説』を参照いたしました。記して関係者にお礼申し上げます。
 

ありし日の早乙女氏(左)と「週刊小説」編集長時代の筆者 ありし日の早乙女氏(左)と「週刊小説」編集長時代の筆者

峯島正行(みねじままさゆき)
大正14年横浜生まれ。昭和25年早稲田大学文学部社会学科卒。実業之日本社入社。
34年「週刊漫画サンデー」創刊編集長。47年「週刊小説」創刊編集長。55年有楽出版社創業、代表取締役。平成13年退社。平成4年『ナンセンスに賭ける』で大衆文学研究会賞、
翌5年日本漫画協会特別賞受賞。近著、尾崎秀樹の評伝『荒野も歩めば径になる』で平成22年大衆文学研究会賞特別賞受賞。他に『近藤日出造の世界』『評伝 SFの先駆者今日泊亜蘭』『さらば銀座文壇酒場』がある。  

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