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新・気まぐれ読書日記 (53) 石山文也 琥珀の夢(その2)

気の早い読者ならタイトルが『琥珀の夢』だから、信治郎いよいよウイスキーに挑戦するのか、と思われるかもしれない。とんでもない。明治・大正のこの時代、日本酒の需要に比べれば洋酒は微々たる需要しかなく、輸入販売でまかなえたから国産ウイスキーを手がけるという発想すらなかった。たとえ技術や生産設備があったとしても熟成されたウイスキーが商品となるのに早くて5年、ことによっては10年の歳月、まったく利益を生まない時間をかかえなくてはならない。利どころか、借り入れた金の利子を払い続けなければならない。世に幾多の商人がいてもこれまで誰一人として挑んだことはなく、それを「夢」として追いかける信治郎が<酔狂の極み>と言われながら挑戦を始めるのは表紙を紹介したこの下巻でも後半3分の2を過ぎてからである。さまざまな試行錯誤や戦争、天災地変、失敗や事業の撤退などをいちいち書き留はしないがもう少しお待ちいただきたい。


伊集院 静 著『琥珀の夢 下』集英社刊

 

開業9年目、寿屋洋酒店と名前を変えて間もなく誕生したのが「赤玉ポートワイン」である。作業場に籠ること丸二日半、新たな葡萄酒は昇る朝陽のようなお天道さんにあやかって「赤玉」と命名した。ラベルも気に入るまで何度もやり直させた。印刷所のオヤジとはこんなやりとりだった。

「あんさん、そんな赤色ではあかん。空にぐんぐん昇って行く朝陽の、あの真っ赤っ赤やないとあきまへん。一目見たら、あっ、これや、これが赤玉やと目に焼き付く赤やないとあきまへん」

「へぇ~、そやさかい、こうして三晩も店の職人と色出ししましたんだす」

「あかん、三晩やろうが、こないな赤色やあきまへん。すぐ戻って、やりなおしなはれ。あんさんとこの印刷なら博労町で一番の色出しがでけると見込んで頼んでんのや。銭はなんぼかかってもかましまへん。工場の方はもう赤玉がどんどんでけて、あんさんの仕事を待ってんだっせ。その子らに着せる着物だっせ。気張っとくれやす」

 

値付けも東京の「蜂印」葡萄酒を上回る1本38銭と米1升が10銭の当時、4升分に近い価格をつけることによって<真っ向勝負>に出た。とはいえ、販路拡大は自らの体力と持って生まれた愛嬌が頼りだった。四国への売り込みでは高松の得意先や松山の商人宿あてに100本ずつ送り、それを大八車に積んで大洲、八幡浜、宇和島、西条、新居浜をはじめ小さい町まで残らず回った。ひと回りする頃に顔は赤銅色に日焼けし、何度か草履を買い替えるほどで、知らない店では「漁師でもしとられましたかの」と聞かれるほどだった。

 

少し時期は遅れるが、寿屋第一号のポスターとなる赤玉のポスターは、女優の松島栄美子が赤玉の入ったグラスを手に何か言いたげな表情をみせるあのポーズが大評判となり世間を驚かせた。当時の常識からすれば大胆ではあったが半裸になっただけなのに日本初のヌードポスターと噂になり、赤玉を飲まない人たちからも、ポスターが欲しいとの申し出が殺到した。これも合格となるまでには実に1年近い歳月をかけてようやく完成したもので、後にドイツで開催された世界ポスター展で堂々の第一位を獲得した。

 

第一次大戦後は一時的に不況に陥ったが消費の増大が日本経済を下支えした。「赤玉」の売れ行きは地方都市で伸びていった。新聞広告も積極的に出し東京支店を開設するなど進出攻勢を本格化させた。国分商店を筆頭とする関東圏の問屋は信治郎の熱心な説得とさまざまな販売策により「蜂印」と対抗する葡萄酒として「赤玉」をプロモートし始めた。まさに自分の足で開拓した得意先の多さは強みであり、缶詰め問屋として十分繁盛していたから安売りをしなかったのも信用となった。この国分商店とは関東大震災直後に自ら準備した救援物資を海軍省に頼み込んで海路を運び、焼け残った社屋に届けた。集金に来たのかと心配する番頭に残った伝票を出させるとその場で全てを破り捨てて「これで決済は完了だす」と驚かせたエピソードも紹介される。

 

洋酒以外のさまざまな商品開発に信治郎は自慢の鼻と独特の勘で挑戦し続け次々に商品化していく。それでも国産ウイスキー作りへの道はまだまだ遠かった。

 

「誰もやったことのないことをやる」――信治郎のとてつもない夢は「赤玉」の好調な販売があったとはいえ、周到な準備と海軍のような洋酒党の開拓、資金にしても銀行だけではないスポンサーの確保、ありとあらゆる壁があった。

 

必要資金は大正期に入社した大番頭で秘書役でもあった児玉基治たちにこの先5年間で必要となる資金を試算させた。ようやく出てきたウイスキー蒸留所の建設費用は200万円を超えていた。当時の200万円は現在の金に換算すると十数億円になる。これに招聘する技術者の十年間の給与、材料費を加えると全ての金額がどれほどになるか見当もつかない。その上、そこに借り入れた金の利息がかかる。

 

壁のひとつが解決したのは中心となる技術者としてスコットランドで洋酒造りを学んで帰国した竹鶴正孝との出会いだった。京都・大阪府県境の山崎に作られた醸造所に仕込まれた原酒は眠りつづけた。10年間の契約のあと竹鶴は北海道の余市でニッカウヰスキーを興すが、残された原酒が目覚め「サントリーウイスキー12年もの角瓶」として日本特有の切子細工から発想を得た亀甲型のボトルデザインで登場したのは昭和12年だった。美しい琥珀色、黄金の色が売り出しから好調で国産ウイスキーの夜明けを告げるのにふさわしかった。

 

信治郎は「ようやっとでけたんやな。13年か・・・」と次々に入る「角」の注文を聞きながら山崎蒸留所が完成してからの歳月を思っていた。

 

今夜あたり、私もグラスを傾けながらもういちどこの本の余韻に浸ろうと思う。

ではまた

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