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“1月17日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1942=昭和17年  彫刻家・土方久功が南洋庁の後輩・中島敦とパラオ一周の旅に出た。

土方は東京美術学校(現・東京芸大)を卒業後、東京で活動していたが1924=昭和4年に新天地を求めて公学校=初等学校の図工教員として南洋に渡った。ヤップ諸島のサタワル島で7年間を過ごしパラオのコロールにあった南洋庁に戻ったところだった。中島は横浜高等女学校を退職後、妻と2児を残して前年7月に南洋庁に赴任していた。持病のぜんそく治療を兼ねての転職で、『山月記』などで知られる作家になるが当時はまだ無名だった。

土方は中島とよほど気が合ったのか初対面から<敦ちゃん>と呼んだ。出発前、体調が悪かった中島は「前夜は熱出で、発汗数次。眠る能はず」というありさまで土方も「出発は止めにせんか」と思ったが最初の宿で丸一日寝てようやく熱が下がった。土方のほうも背中に持病のリューマチを抱えていたが、中島のリュックを運ぶ人手を苦労して手配するなど気を遣った。

マルキョク、ガラルド、アルコルン、カヤンガル、二人が訪ねたかってのどかだった村々は戦争で様変わりしていた。タコの木しか生えていなかった草山はてっぺんまででん粉を取るためのタピオカ畑として開墾され、島民は忙しく立ち働いて軍に納入する野菜や果物を半ば強制的に作らされていた。至る所で日本軍の兵隊があふれ、一方では内地からの船は不定期になり食料品が不足していた。それでも土地土地で立派な若者やたくましい女房に成長した土方の教え子たちが「センセイ、センセイ」と懐かしげに寄ってきて乏しいなかからバナナやパパイヤ、タロイモ、豚肉、魚を差し入れてくれた。

土方が顔見知りの島民に会うたびにパラオ語で二言三言立ち話をして時には冗談を言い合うのを中島は「いまは何と言ったの?」と訊ね「いいなあ、いいなあ」とひどくうらやましがった。豪雨に降り込まれた林業試験所の小屋で土方はこんな詩を作っている。

  若いくせに喘息もちの敦ちゃんと
  背中にロイマチスを背負っている余との     *ロイマチス=リューマチ
  幸運にも過ごしてきた十日の旅の
  ここ二、三日で終わる昨日今日
  人里はなれたこの造林地の小屋に
  雨風に吹き降られて
  南洋の寒さにたえて
  南洋にも寒さはあるもの
  薄い毛布にくるまって
  朝から晩まで 古新聞を
  ひっくりかえし ひっくりかえし
  いぶせき日を
  いぶせき思いに ふるえ暮らしつ

「いぶせき」は<気がふさいで鬱陶しい>という意味だから土方は戦争が次第に現地の人々に影を落とすことにいたたまれなかったのだろうか。

31日にコロールに戻った二人は、お茶でも飲もうと南洋貿易の二階にあがったが兵隊たちで満員だった。それを見て土方は「パラオ生活、南洋生活の最後をつくづくと感じたのだった」と紀行の末尾に記している。その記述のように土方は中島とともに間もなく職を辞して帰国する。中島は『光と風と夢』が芥川賞候補になりながらこの年の12月4日、気管支喘息で33歳の若さで死去した。『山月記』が国語教科書に多く掲載されて作家として広く知られるようになるのは没後のことである。

*1890=明治23年  神奈川県大磯で療養中の新島襄が妻・八重に手紙を出した。

新島は京都に同志社英学校を開校し14年目を迎えていた。その実績をもとに大学の開校を目ざしジャーナリストの徳富蘇峰の助けを借り、新聞各紙に「同志社大学設立の旨意」を掲載するなど募金運動を繰り広げていた。ところが前年の11月28日夜、群馬県前橋で激しい腹痛に襲われ、蘇峰のはからいで温暖な大磯の旅館「百足屋」で転地療養していた。手紙には留守中に自分の誕生会が京都の自宅で開かれ大磯で書き初めした書がくじ引きの景品に出され、引く前から意中の生徒に当たるように細工し、それがうまくいったことを「大いに腹ももじりて笑い申し候」と喜んでいる。また、自分の短気を反省しながらも宿には主人をはじめ気の長い「気長先生」ばかりで自分の秘書もそれに似て「顔も長く気も長い」と憤慨するユーモアを見せている。

「私も十一日の夜、少々腹痛致し申し候。これは、この日、外に出て、風邪を引き候わけなり。俄かに胃カタルを起こし候なり。もう今日はよろしく候」と書いて安心させ、さらにアメリカから贈られた菊苗の上にしっかりわらをかぶせ、寒気で傷まないように真南から日が当たるようにしなさいと書き添えた。

しかしこれが絶筆になった。見舞いのために八重が20日に百足屋に着いたあとで容態が急変、遺言を蘇峰に口述筆記させると3日後の23日午後2時20分、八重の左手を枕にして死去した。46歳、急性腹膜炎だった。

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