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“1月7日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1954=昭和29年  戦後の政・官・財界を大きく揺るがす「造船疑獄」の捜査が始まった。

「造船疑獄」は造船各社が新規の造船のために銀行から融資を受けた利子補給を巡る贈収賄事件である。きっかけになったのは山下汽船・横田愛三郎社長の「横田メモ」だった。業界が政官界有力者を赤坂の料亭などに接待した記録が事細かに残されていた。別の事件を捜査していた東京地検が偶然見つけたものだったが続いて金融業者・森脇将光の「森脇メモ」、社会党右派・佐竹晴記の「佐竹メモ」が登場する。佐竹メモは国会で与党を追及するために作成して自らが発表したものだ。

造船業界による夜毎の接待攻勢が明らかになったことで地検特捜部は与党自由党の副幹事長ら4人、新造船の建造を審査する運輸省官房長ら5人を逮捕、造船各社の80人を逮捕した。4月に入ると捜査は一気に自由党中枢に及び、当時は幹事長だった佐藤栄作を逮捕する方針を固めた。ところが犬養健法務大臣が防衛庁設置法案など重要法案の審議を理由に指揮権を発動した。逮捕を免れた佐藤は政治資金規正法違反で在宅起訴されたが日本の国連加盟恩赦で訴えを免れた。

メモに始まり、指揮権発動で政権トップへの追及は<不発>に終わったものの造船各社の71人が逮捕され51人が在宅での取り調べを受け参考人として調べられたのは7,800人に上った。疑獄そのものは闇に葬られはしたがこの年の12月に第5次吉田内閣が倒れるきっかけになった。

*紀元前49年  ローマ帝国最大の政治家カエサルが政敵ポンペイウスらとの「内戦」に突入した。

ポンペイウスはカエサルの娘・ユリアを妻にしていたがユリアの死後はカエサルと距離を置くようになり、しかも反対派閥の元老院派に近づいたため彼らとの内戦に突入した。カエサルは軍を率いてルビコン川を渡ったがその時に「この川を渡れば人間世界の破滅、渡らなければ自身の破滅」と言った。まさに<賽は投げられた>のである。

*1950=昭和25年  聖徳太子の肖像が図柄の千円札が発行された。「B号券」と呼ぶ。

裏面は太子ゆかりの法隆寺夢殿を配したデザインでこの日まず300億円分が市中に出回った。戦後インフレの進行でそれまでの百円札では数えるだけでも一苦労だった。取引には札を山のように積んで行う必要があったから銀行や会社などでは歓迎された。

読売新聞夕刊は「都民の手に届いたのは午前11時すぎ。パラリと開いただけで10万円、100万円でも278匁。窓口嬢は仕事が楽とお喜び」と報じた。しかし印刷技術の向上で偽札が多くなったことで1963=昭和38年11月には伊藤博文の図柄の「C号券」にバトンタッチした。

*834=承和元年  宮中の豊楽殿の前庭で「白馬節会」が行われ仁明天皇が観賞した。

宮廷の年中行事のひとつで「あおうまのせちえ」と読む。中国から伝わった行事で、邪気を祓うとされた白馬を左右馬寮の官人が庭に引き出して天皇のお目にかける。この日は白馬21頭を用意したという。もちろん、真白な馬は少なかったから他の馬よりも「青みを帯びた黒馬」が使われたから「あおうまの」と読むようになったとされる。

現在も京都の上賀茂神社や大阪の住吉大社などでは神事として続いているが登場するのは近県の牧場で飼育されている<常連馬>が中心だ。平安の昔は正月早々からより素晴らしい馬を天皇に見てもらうための馬集めも大変だったでしょうね。

*1872=明治5年  箱館戦争で官軍に投降した榎本武揚らが禁獄御免となった。

禁獄御免とは「特赦による出獄」である。榎本の才能を惜しんだ福澤諭吉や黒田清隆らが助命に奔走して実現した。榎本は新政府に登用されて開拓使をつとめたあと駐露特命全権大使として樺太・千島交換条約を締結した。

特筆しておきたいのは農商務大臣時代には懸案だった足尾鉱毒事件について初めて予防工事命令を出し、現地を視察した。それまでは地元民と銅山会社との私的な紛争としていた政府見解を覆し、国が対応すべきとして大隈重信らに説き鉱毒調査委員会を設置したあとで自らは引責辞任した。

『都新聞』の前身の『今日新聞』が1885=明治18年に行った「現今日本十傑指名」の投票では福澤、福地源一郎(新聞記者)、伊藤博文などと並んで選ばれている。ここでの肩書は「軍師」となっているのが面白い。

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