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“11月17日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1869年  スエズ運河が10年がかりの難工事の末にようやく開通した。

地中海と紅海を結ぶことでそれまではアフリカ大陸を大回りしていたヨーロッパとアジアを結ぶ海路が開けた。ヨーロッパとアジアはアフリカ回りに比べるとほぼ半分に短縮された。建設当時は全長164キロ、深さ8メートルだったが拡張工事を重ねて現在は全長193キロ、深さ24メートル、水路幅205メートルになっている。

運河が建設されたエジプトのスエズ地峡は古代にはナイル川と紅海をつなぐいくつかの運河があったという説がある。紅海がもっと内陸部まで深く入り込んでいたから地峡自体の幅が狭かったともいわれるが気候変動などから砂に埋もれその真偽は謎とされていた。19世紀半ばに運河の建設計画を具体的に進めることになったのはフランスの外交官だったフェルディナン・ド・レセップス(1805-1894)である。

きっかけになったのは1833年にエジプト・アレキサンドリア副領事として赴任する途中、船内でコレラが発生したため<海上隔離>されてしまう。このときヒマつぶしに読んだ18世紀にフランス人技師ルベールがナポレオンに宛てたエジプトに関する報告書からスエズ運河の建設に強い関心を持つようになった。カイロ領事のときにエジプト総督家の皇子の<家庭教師>をした縁でエジプトサイドにコネができたことも大きい。スペイン大使を最後に外交官の職を辞すと本格的に建設に向けて動き出す。1854年に建設母体となる国際スエズ運河会社を設立し株式をフランスなどで公開することで試験掘削を開始した。工事に反対したのは運河の北方が領土だったオスマントルコや背後にいたイギリスなどだ。オスマントルコは運河が実質的に国境化するのを嫌い、イギリスを巻き込んで妨害を重ねたがフランス皇帝・ナポレオン三世の仲介もあり工事は続行できた。他にも疫病の蔓延や砂漠地帯での過酷な現場ということもあり数千人の死者が出たといわれる。

多くの苦難を乗り越えての開通式には各国の王族や名士ら7千名が参列した。ナポレオン妃の乗った船は地中海側から、エジプト軍艦は紅海側から運河に入った。開通後はレセップスの思惑通り利用船舶が増え続けて莫大な収益を上げることで「さながらひとつの国家のようである」といわれた。
妻を病気で失っていた64歳のレッセップスは友人の21歳の娘と結婚式を挙げた。後のパナマ運河での撤退を持ち出すのは酷かもしれないが彼の人生はこのあたりまでが最高だったか。

その後、二度の大戦や湾岸戦争などを経てスエズ運河自体は変わらず<海の動脈>として健在である。しかし近年は運河の通過にかかる高額の保険料や多発している紅海出口付近のソマリア海賊の襲撃を嫌ってアフリカ回りの航路を取る船が増えたという。海の近道も国際情勢によってはまた別の荒波が立つのですね。

*1930=昭和5年  東京下町の紙芝居に『黄金バット』が登場し子どもたちの人気を集めた。

それまでは黒マントにガイコツマスクの怪盗が活躍する無敵の『黒バット』が子どもたちに受けたが悪役だったため親たちからは<危険視>された。そこで黄金色のガイコツマスクに赤マント姿の黄金バットを登場させて黒バットをやっつけさせた。これが鈴木一郎作の『黄金バット』シリーズのはじまりで、笑い声の「ウハハハハハ」は学校でも家庭でも子どもたちが奇怪な笑い声をまね、あっという間に広まった。なかには黄金バットのマントにと家から<赤い布>を持ち出したら「それは母ちゃんの腰巻だよ!」と叱られる珍事や高いところから飛び降りてけがをするケースが続発したため紙芝居を見るのを禁止する学校も現れた。

不景気、失業で揺れたこの年の流行語は他には映画の題名から「何が彼女をそうさせたか」。歌謡曲は「祇園小唄」「女給の唄」などが流行した。

  「祇園小唄」
  月は朧に 東山
  霞む夜ごとの かがり火に
  夢もいざよう 紅ざくら
  忍ぶ思いを 振り袖に
  祇園恋しや だらりの帯よ

こちらはいまでも<京都といえば>ということでおなじみだが、西条八十作詞で広津和郎原作の映画『女給』の主題歌として歌われた

  「女給の唄」
  わたしゃ夜咲く 酒場の花よ
  赤い口紅 錦紗(きんしゃ)の袂(たもと)
  ネオン・ライトで 浮かれて踊り
  さめてさみしい 涙花

のほうはカフエー全盛時代の夜の町に流れたがそのまま消えていった。

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