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“11月15日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1867=慶応3年  京都・河原町の近江屋で坂本竜馬と中岡慎太郎が襲撃されて亡くなった。

竜馬は9月末に大政奉還のための「船中八策」をまとめ後藤象二郎を通じて前土佐藩主の山内容堂に渡した。容堂は10月3日に大政奉還建白書を幕府に提出、将軍慶喜はこれを受け入れて同14日に朝廷に願い出た。竜馬はこれで第一段階はやり遂げたものの岩倉具視や西郷隆盛に新政府樹立後の財政計画を立てさせるのは難しいと見抜き、横井小楠の弟子で越前福井藩士の三岡八郎の起用を思いついて福井に出かけた。三岡はのちに由利公正と改名して初代東京府知事、子爵になる人物である。三岡に上京を説得し京都に戻るとその首尾を岩倉に報告して近江屋に入った。

近江屋は醤油商で竜馬は材木商の酢屋を<隠れ家>にしていたが、新撰組が狙っていると忠告されて近江屋に替えた。裏庭の土蔵にいたが風邪気味だったこともあり「寒いし厠に行くには不便ぜよ」とこの朝から母屋の二階に移っていた。

日暮れ前、同じ土佐出身で陸援隊隊長の中岡慎太郎が同志のことで相談にやってきた。2人が話し込んでいると「十津川の者」と名乗る訪問客が訪ねてきたと近江屋の使用人が名刺を持ってきた。下をのぞくといきなり刺客数人が乱入してきて「コナクソ」と叫びながら斬りかかった。一瞬のできごとで北辰一刀流の遣い手だった竜馬は即死した。重傷を負った中岡は「焼き飯」を所望したが間もなく息を引き取った。竜馬31歳、中岡29歳で竜馬は奇しくもこの日が誕生日だった。

18日に近江屋で葬儀のあと東山に埋葬された。京都・薩摩藩邸に潜んでいた桂小五郎=木戸孝允は「せめてわが友のために」と悲しみの筆をとって2人の墓標を書き上げた。1870=明治3年になって元・京都見廻組組長の佐々木唯三郎ら7人が刺客であったことが判明した。

*1923年  ドイツのハイパーインフレを防止するための新通貨レンテンマルクが発行された。

第一次世界大戦で敗戦国となったドイツのインフレはすさまじかった。ビールジョッキを飲み干すまでにどんどん値段が上がったから<一杯ごとに代金を支払った>と語り継がれている。マルク紙幣は大暴落し、1ドルが数百億マルク、1ポンドが47兆5千億マルクにまで跳ね上がった。

ここで活躍したのが通貨委員に任命されたヒャルマル・シャハト(1877-1970)だった。シャハトはあくまで金本位制を前提にしながらもひとまず土地や山林などの不動産と企業の商工資産を担保として新設したレンテン銀行が新通貨を発行することでインフレを乗り切ろうとした。

新通貨レンテンマルクは1兆マルク=1レンテンマルクの換算比率で交換されて<過渡的な鎮静剤>としての役割を果たした。翌年11月には完全金本位制通貨のライヒスマルクに引き継がれるが「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれた。

*1903=明治36年  週刊「平民新聞」が東京の平民社から発刊された。

発行元の平民社は「萬朝報」が日露戦争での非戦論から開戦論に転換したことに抗議して退社した幸徳秋水と堺利彦が非戦論の主張を貫くために開業した。現在のJR大塚駅北口広場の近くの借家が拠点で第1号には「門閥の高低、財産の多寡、男女の差別より生ずる階級を打破する」の宣言を載せた。多くの弾圧や発禁にあいながらも翌々年の64号まで続き社屋は社会主義者の活動センターになった。

*1964=昭和39年  京都競馬場で行われた菊花賞でシンザンが史上二頭目の三冠馬になった。

騎乗したのは栗田勝騎手で皐月賞、ダービーと合わせて芝3,000mを見事に駆け抜け昭和16年のセントライト以来、23年ぶりの栄冠を獲得した。以降の三冠馬はミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディ―プインパクト、それに唯一現役で2011年三冠馬になったあのオルフェーヴルを含めて中央競馬のクラシック三冠達成馬は合計7頭である。余談ながらオルフェーヴルはフランス語で「金細工師」とか。

*1925=大正14年  わが国の新聞では初めての「ラジオ版」が読売新聞の付録に登場した。

目立つように用紙はピンク=桃色で2ページだった。現在のようにネットや録音技術もない時代だったから取材には大変な苦労があったようで「語りもの番組」では出演者に頼み込んで<一席>やってもらった。取材を受ける方も忙しいなかでわざわざ時間を割かなければならなかったわけです。

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