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“5月26日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

千年もの長いあいだ都であり続けた京都は多くの戦乱の舞台になった。守るもの、攻めるもの、はたまた逃げ出すもの。それぞれにやむにやまれぬ<事情>があった。この日は時代を画すひとつの戦さが終わった日であり、10年も延々と続く戦乱が始まった日でもある。

*1180=治承4年  「宇治川の橋合戦」で77歳の源三位頼政が平氏の軍勢に討たれた。

都の東南、いまの宇治平等院あたりを南都・奈良に向けて落ちのびようとしていた頼政は追ってきた平氏の軍勢と宇治川を挟んで対峙した。わざわざ年齢を書いたのは頼政が老獪な人物だったから。権勢をほしいままにした平清盛は前年、後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉するクーデターを起こした。さらに第二皇子の以仁王(もちひとおう)の領地なども没収するに至って朝廷の権威を踏みにじられた王は比叡山麓の三井寺(園城寺)の僧兵を頼って挙兵した。

頼政は源氏でありながら清盛サイドにいた人物で、清盛から王を討つように命じられると快諾しながら裏切ってしまう。しかも王から平家追討の令旨(りょうじ=命令)をとりつけた。「全国の源氏の侍よ立て、そして平家を討て!」と挙兵を促す内容で<写し>が大量に作られて伊豆の源頼朝、木曽の義仲、奥州にいた義経という主だった面々に届けられたのが清盛に漏れてしまう。誰かがリークしたわけで清盛にしてみれば思いもかけなかった裏切りに怒り心頭、すぐに屈強の兵を差し向けた。

以仁王は頼政の軍勢と比叡山麓の三井寺(園城寺)に身を寄せるが追手が迫り、南都勢力の中心にいた興福寺の僧兵を頼る途中で平氏軍に追いつかれてしまう。僧兵たちは宇治橋を疾駆して奮戦し、引き際には橋げたを外して一時は持ちこたえるかに見えた。殺到した平氏の騎馬武者らは次々に川に落ち、それを見た僧兵らがどよめくさまが絵巻に紹介される有名なシーンだが戦況利あらず、わが子二人の戦死が伝わると頼政は気力も尽きたのか宇治川を望む扇の芝で切腹して果てた。王はこの間にさらに南へ敗走するが途中で捕まり落命した。

  埋れ木の花咲く事もなかりしに実のなる果てぞ悲しかりける

という辞世を残した頼政の怨霊が蛍になって平家に戦いを挑むというのが「宇治川の蛍伝説」。源氏の勝利を見ずに憤死したわけだから。もちろん大きいのが源氏、小が平家。「令旨」は以仁王や頼政の画策通り源氏の侍たちに届いたのだから<たかが紙切れ一枚>には終わらなかった。

*1467=応仁元年  京都を焼きつくした「応仁の乱」が始まった。

細川勝元率いる東軍の16万余騎と山名宗全を総大将とする西軍の11万余騎が戦端を開いた。この両陣営に管領の畠山家と斯波家、さらに京極家と六角家が両軍に分かれて戦った。東軍とはいっても四国や九州の大名もいたし、西軍にも美濃や信濃、越前、尾張、遠江、能登を支配する大名もいた。東軍は相国寺の近くの勝元邸に陣を置き、西軍はその西の宗全邸に陣があったからその位置関係から名付けられた。しかし陣営そのものも入り乱れ後方撹乱や寝返りなども頻繁に起きたから当時の人々にとってもなかなか理解できない戦いだったろう。

戦いの結果は一応、西軍が勝ったものの勝元も宗全も相次いで疫病で倒れ、戦場となった都は一面の焦土と化した。将軍の地位だけでなく公家は失墜し守護大名の勢力も衰退して身分が下の者が上を打ち負かす「下剋上」の風潮が強まり群雄割拠の戦国の世へと向かう。学校や予備校の先生なら「ここは必ず試験に出るから登場人物や背景をよく頭に入れておくように。年号は<人はむなしき=1467=応仁の乱>だからね」と繰り返し念を押すところだけれど。

将軍足利義政に仕えた飯尾常房(1422-1485)は、ヒバリが上がる野原に変わった宗全邸の跡に立って詠んだ。

  なれや知る都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落る涙は

このあたり、室町幕府の西に西軍が陣を敷いたのがいまの西陣の起こりである。

*1933=昭和8年  瀧川事件に揺れる京大法学部をからかう投書が朝日新聞に載った。

「講師を求む。法律を多少解する者、研究の自由なきも、破格優遇、地位安固、講義は国定教科書による」

学生の間では『戦友』の替え歌がはやった。

  ここはお江戸を何百里
  離れて遠い京大も
  ファッショの光に照らされて
  自治と自由は石の下

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