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“5月27日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1905=明治38年  ロシア・バルチック艦隊を迎え撃つ日本海海戦が始まった。

東郷平八郎・聯合艦隊司令長官の「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」のZ旗で知られる。バルト海に面したロシア・リバウ軍港からスエズ運河と喜望峰回りで沿海州のウラジオストクをめざすロシア・バルチック艦隊の38隻は、仏領インドシナ=現・ベトナムのカムラン湾で合流した。ここからは最短の対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の3コースが考えられたが機雷封鎖が徹底していた津軽海峡と距離が長くなる太平洋回りの宗谷海峡は避けるはずというのが東郷や作戦参謀の見方だった。当時の戦艦は石炭を使う蒸気船で途中の洋上補給が必要になるからだ。

5月14日、艦隊はカムラン湾を出港、19日には台湾とフィリッピンの間にあるバシー海峡を通過した。これらの情報は商人などに変装してジャンクに潜り込んでいた諜報員から報告されたが、太平洋回りの可能性もあった。そこに飛び込んできたのは随伴していた石炭運搬船6隻が26日に上海に入港したという情報で、対馬海峡通過が確実になった。

27日未明、商船を仮装した巡洋艦・信濃丸が九州の西<203地点>で艦隊の病院船・オリョールの灯火と無灯火航行中の多数の艦影を見つけ、全速で退避しながら「敵艦見ユ」と打電した。韓国の鎮海湾にいた聯合艦隊の旗艦・三笠はこれを受けて大本営に「敵艦見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と打電した。

戦端が開かれたのは午後2時過ぎ。「トーゴーターン」として語り継がれる直前大回頭で敵艦隊をふさぐ格好でT字型の隊列をとった。各艦が最大効果の砲列を敷いたことや風上だったことなどが奏功したといわれる。ロシア側が撃沈を含め沈没21隻、戦死4,830人、捕虜6,106人だったのに比べ、日本側は水雷艇3隻を失い、117人が死亡、約600人がけがをしたが<軽微な被害>ですんだ。

地元の対馬や壱岐だけでなく九州本土や山陰沿岸の人々は2昼夜にわたりインインたる砲声を聞き、勝ったのか、負けたのか、乱れ飛ぶ流言のなかにひたすら神仏に祈った。砲声が止むとともに「大海戦大勝利敵殲滅」などと日本海海戦大勝利を伝える新聞号外に国中が沸き返り、イギリスの新聞はフランス皇帝ナポレオンの艦隊をイギリスが破った「トラファルガーの戦勝を凌駕する」と絶賛した。

信濃丸は徴用を解除されるとシアトル航路に復帰、後に神戸と台湾の基隆航路に就航した。孫文が日本に亡命したさいに乗船ことでも知られる。太平洋戦争で再度徴用され、漫画家の水木しげるがラバウルに渡ったのもこの船。「触ると船体の鉄板が欠け落ちるほど老朽化が進み、浮かんでいるのが不思議なほど。魚雷が船底を通るだけでも沈むのでは」と心配されながらも2度の戦争を生き延びた。強運の船も朝鮮戦争特需の1951=昭和26年にスクラップとして解体・売却された。

旗艦・三笠のほうは横須賀の三笠公園に「記念艦三笠」として置かれている。戦後は艦上にダンスホールや水族館が作られるなどしたが復元保存運動が実を結び1961=昭和36年のこの日、復元記念式典が行われた。最後の乗組員だった京都市の男性が98歳で亡くなったのが1982=昭和57年、明治は遠くなりにけりである。

*1235=文暦2年  藤原定家が小倉百人一首を完成させた。

『明月記』に親友の頼綱の求めに応じて京都嵯峨・小倉山の山荘の障子に書き写した和歌百首を貼ったと書かれている。内訳は恋43、四季32、旅4、別離1、その他20でこれを記念して「百人一首の日」。

江戸の川柳を集めた『誹風柳多留』に「百人の中へ一声ほととぎす」がある。後徳大寺左大臣の「ほととぎす鳴きつるかたを眺むればただ有明の月ぞのこれる」を百人一首でホトギスを詠んだのはこの一首だけとなかなか鋭い。

*1891=明治24年  ロシア皇太子が警備の巡査に負傷させられた大津事件の判決があった。

ロシアが賠償金や領土の割譲を要求してくるのでは、という危惧を抱いた政府は天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用する「大逆罪」を求めた。この日の判決は大勢の報道陣だけでなく多数の見物人が大津地方裁判所を取り囲んだ。「刑法に外国皇族に関する規定はない」と法治国家としての法律遵守を主張した大審院院長の児島惟謙(これかた)も出向いたなかで堤正己裁判長は犯人の滋賀県警察の巡査・津田三蔵に旧刑法の謀殺未遂罪で「無期徒刑」を言い渡した。

津田は北海道の釧路集治監に収監されたが9月29日に急性肺炎で病死した。死後も日露戦争の際には「憂国の志士」として持ち上げられたこともあった。標茶町にあった釧路集治監の本館は塘路湖畔に移されて郷土館になっている。

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