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池内 紀の旅みやげ(23)ユースの青春─鹿児島県指宿

鹿児島の指宿(いぶすき)温泉は海辺に湯が湧いていて、旅館が並び立っている。JR指宿駅から商店街を抜けて海岸へ向かっていたら、奇妙な建物が見えてきた。海近くにあるが旅館街からは離れていて、畑を背にしている。立派なコンクリートの四階建てだが、壁一面にツタが這い、遠くからでも荒廃感が見てとれる。なおも近づくと、屋上の壁に「指宿ユースホステル」としるされていた。

指宿ユースホステルの勇姿も廃墟です。”若者たち”というキャッチフレーズはなにやらむなしい。

指宿ユースホステルの勇姿も廃墟です。”若者たち”というキャッチフレーズはなにやらむなしい。

前にまわると、背をこす草の中にシュロの木が繁り放題で、玄関にはトタンが打ちつけてあり、それが半壊状で黒い口をあけていた。かたわらに廃物が散乱している。電柱につけられたプラスチック製の看板だけは、なぜか洗ったようにきれいで、「いぶすきユースホステル」の文字がくっきり浮き出ている。かつて薩摩の南端をめざしてやってきた若者たちは、目を輝かせて看板を見上げ、眩しいような四階建てに胸おどらせて玄関へと向かったのではあるまいか。

一九六〇年代から七〇年代にかけてのことだが、日本全国にユースホステル(略称YH)があって、一泊五〇〇円程度で泊まることができた。独立した建物の場合もあれば、寺や神社がユースを兼ねていて、僧房や社務所が宿泊にあてられていた。

戦後の貧しい時代がひとまず終わり、やや生活に余裕ができたころである。名神高速道路が開通。東海道新幹線がスタートした。ミニ・スカートが登場、マイカー、クーラー、カラーテレビが「3C」としてもてはやされた。レジャーブームが若い層にもひろがり、リュックをかついで旅行に出る。「知床旅情」が大ヒットして「さいはて」が憧れの地になった。能登半島、本州最北端、北海道でも北端の稚内や礼文島。現代の尺度だとあどけないかぎりだが、日本列島のはしっこが世界のはてにひとしくなった。

乗り物は主に旧国鉄で、当時は学割を使って周遊券をつくると六割ちかくの割り引きになった。食べ物はコッペパンに水でもひもじくない。問題は宿であって、旅館はとても手が届かない。そんな幼い旅人にユースホステルは救いの神だった。会員制で、ユースホステル協会に写真と会費を払って登録する。規則がいくつかあって、必ず往復はがきで予約すること。泊まり部屋は男女別、消灯、起床時間厳守、アルコール、タバコはダメ。食後の片づけ、布団の上げ下げはセルフサービス。ユースのスタッフは「ヘルパー」と呼ばれ、泊まる方は「ホステラー」で、必ずヘルパーの指示に従うこと。夜のミーティングで、めいめいが自己紹介して、親睦を深める……。

私自身、ユース全盛期と出くわした世代だが、実をいうとあまりよく知らない。安さにひかれ登録したが、会員証を利用したのは二度きりで、山形と能登で計三軒に泊まり合わせただけである。体験して、つくづく自分には合わないことがわかった。旅は気まぐれが楽しいのに、予約したかぎり、何が何でも当日の時間内に予約先に着いていなければならず、二十前から安タバコをプカプカやっていた者にとって、庭先で蚊にくわれながらタバコをふかすなんておもしろくないのである。夕食にはなけなしの懐中をはたいてもビールを飲みたい。ヘルパーがギターをかかえてきて、大広間で合唱の気配を察し、夜の町へ逃げ出したところ、翌朝、きつい言葉でとっちめられた。

正確にいうと、自分の意志でユースに泊まったのは最初の二軒で、三軒目は恋人が親の許可を得るための用向きだった。幸い同じ嗜好の女性だったので、以後の宿はべつに見つけた。男女が誘い合って旅行するケースでは、やはり別室方式は不自然きわまりないといわなくてはならない。

八〇年代以降、ユースホステルは急速に凋落した。経済の高度成長の恩恵が若い層にも及び、規則ずくめのユースが敬遠され、新しく登場してきたホテルへと移っていった。そういった社会的な理由とともに、心理的な理由もあったような気がする。要するにユースホステルが色濃くおびていた「ウソくささ」であって、単なる宿泊施設がモラルの教師を兼ねている不自然さ。同じ齢ごろという理由だけで親睦をはかり、肩を組んでフォークソング歌うことのおかしさ。そういったことに頬を紅潮させて感激するタイプもいれば、すべてがウソくさく思えてならず、恥ずかしくていたたまれない人間もまたいるのである。

鹿児島の有名な温泉の町、指宿もシャッター街になっているようですね。

鹿児島の有名な温泉の町、指宿もシャッター街になっているようですね。

指宿のユースホステルがどうして廃屋になったのか、経過はまるきり知らない。建物のスケール、つくりの立派さからして、全盛期に計画され、不幸にも営業開始が凋落期にぶつかったのではあるまいか。時代の流れは指宿の商店街にも及んでいて、ヤシの木と昔なつかしいデコレーションで飾られた通りにひとけなく、シャッターの下りた商店の並びに有線のナツメロだけがにぎやかに流れていた。

【今回のアクセス‥JR指宿駅から徒歩十分。海に出るとっかかり】

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