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“12月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1862=文久2年  東京・御殿山に建設中の英国公使館が長州藩士に焼き打ちされた。

攘夷断行を申し入れるために天皇の勅使一行が江戸滞在中に長州藩士の高杉晋作らは江戸でのひと騒ぎを狙った。いったんは藩主の毛利定広の説得で中止したものの勅使らが江戸を離れた直後に実行した。攘夷思想の根本にあったのはあくまで開国に反対して外国人をこの国から追い出してしまえ、というものだったから最初にイギリス公使館にあてられた高輪の東禅寺が2度も放火された。イギリスから厳重に抗議された幕府は北品川の御殿山に公使館を建設していたがここも狙われた。

焼き打ちを行ったのは隊長が高杉、副長が久坂玄瑞、火付け役に選ばれたのが井上聞多(馨)、伊藤博文、護衛役が品川弥二郎だった。決行は午前1時、伊藤がのこぎりで柵を切って侵入し火をつけたあと伊藤らは芝浦の「海月楼」へ、井上らは前日に酒宴を開いていた品川の「土蔵相模」という旅籠に戻り、燃える公使館を見ながらドンチャン騒ぎをした。

久坂は翌年の禁門の変を戦い24歳で自刃、その4年後、高杉は結核のため29歳でこの世を去ったから維新を見ずに終わった。他の隊員たちは<長州閥>として明治新政府の中心となっていったのだから度の過ぎた<若気の至り>ではあった。

これがなぜ<お咎めなし>となったかというと深夜のできごとで目撃者もなかったから彼らの犯行とはわからなかったし延焼もなかった。時代が幕末から明治維新への大混乱のまっただ中に起きたこともあった。ずっとあとで「もう時効だろうから」と語られはじめたころには被害を受けた当の幕府はとっくの昔になくなっていたこともあって「あのときはやむにやまれず」となったわけである。

*1901年  グリエルモ・マルコーニが大西洋を越えての無線実験に成功した。

イタリア・ボローニャに生まれた。子供のころから電気に興味を持っていたが学校には通わず隣人でボローニャ大学の物理学者だったアウグスト・リーギの下で基礎知識を学んだ。野外実験では1.5キロ以上離れた地点での信号伝達に成功したが、イタリアでは誰もその価値を認めてくれなかったので21歳のとき、母親とイギリスにわたりロンドンで支援者を探した。これに郵政省の主任電気技師だったウイリアム・プリースが支援を約束したことで研究がさらに進み、通信距離を伸ばした。

大西洋横断通信はイギリス・コーンウォールの送信所とアメリカ・ニューファウンドランドの無線室との間で行われた。午後0時30分、マルコーニのレシーバーに雑音混じりではあったが「S」を表すカチカチという通信音が聞こえてきた。その間の距離3,500キロ、自宅2階の実験室で<線のないボタン>を押して階下のベルを鳴らし、母親を驚かせてから7年後のことだった。

マルコーニは「無線電信に貢献した功績」でブラウン管の発明で有名なドイツのカール・フェルデフナント・ブラウンと1909年、ノーベル物理学賞を共同受賞している。

*1925=大正14年  ピストル女装強盗の「ピス健」が神戸でようやく逮捕された。

「ピス」はもちろん凶器のピストルからだが「健」は森上健次からとられた。ところが判明しただけでも森上以外に札木森造、河合清次郎、木田順一という偽名を使い関東から関西、果ては九州から満州まで出かけてピストル強盗を続けた。これがすべて偽名と判明したのは仲間が警察に密告したから。神戸生まれ、本名は大西性次郎39歳とわかったのは11月はじめだった。大西はやせ型で小柄、以前、旅廻りの一座では女形をしていたこともあり女装と変装が得意だった。前科4犯、民家や寺院に押し入ると住人を短刀で脅し、抵抗されるとピストルをぶっ放したから警察は組織をあげて追ったが神出鬼没だった。

この日未明、ピス健が神戸に舞い戻り、北長狭通りの小料理屋「星の家」にいるという電話があり警官隊300人が取り囲んだ。ところが女性客が1人しかいない。念のためと刑事が2階奥の4畳間に踏み込むとやはり中年の女が寝ていただけだった。「失礼しました」と刑事が部屋を出ようとした一瞬、男は、いや女は蒲団を蹴って立ち上がり拳銃を向けたが安全装置を外し忘れていたためなだれ込んだ警官が取り押さえた。

その日の朝日新聞夕刊。「殺人鬼ピストル強盗、今暁神戸で捕はる」「品川の訓導、巡査殺しを初め横浜、関西に続けたる兇行も悪運つひに盡きて」「女装のまゝで飛起き、刑事隊に短銃を向く」「警官三百に襲われて豪語す、捕縛間際の状況」「強盗は政府を倒す資金だ」「去月大連に逃走し、又舞戻って神戸へは兵庫署長殺害の為と語る」に続いて記事には「自分は単なる小泥棒ではない。首相、内相を暗殺する目的でその準備として金を得べく近く日本銀行を襲う決心であった」と豪語した内容が紹介されている。

ピス健の裁判は大阪で行われたが犯行が多すぎて検証に長くかかったから拘留中に自叙伝まで書いた。そこには「自分は石川五右衛門のような天下を狙う<大正の大賊>である」と書いてあった。もちろん死刑、大正が間もなく終わる15年9月25日に処刑された。

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