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“12月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1940=昭和15年  永井荷風が、3通目となる<最後の遺言書>を書いた。

この日の深夜、「荷風散人死後始末書」と題した遺書を書き終えると従弟の杵屋五叟=大島一雄に書類一式を郵送した。荷風の父は60歳で亡くなっていたから若いころから病弱な自分は父親より長生きすることはないだろうと固く信じていた。

最初の遺書は41歳の1920=大正9年1月19日で流行風邪(インフルエンザ)で寝込んだときだった。
「病床万一の事を慮りて遺書をしたゝむ」としていたが22日には日記『断腸亭日乗』に
「悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり」と書いている。さらに25日には
「母上余の病軽からざるを知り見舞いに来らるる」とあるから病状が相当悪かったのは確かだろう。

2年後、1936=昭和11年2月24日付でそれを書き直した。
「御神輿の如き霊柩自働車を好まず、又紙製の造花、殊に鳩などつけたる花環を嫌うため葬式は無用。墓石の建立も無用。銀行の預金で全集を印刷して知己に配ること、それ以外の財産は仏蘭西アカデミイコンクウルに寄付すること」
などが書かれていた。それが4年後の3通目となると「寄付は一切しないこと」に変わったが葬式と墓石については同じ内容を繰り返し記載した。

荷風が死の床についたのはそれから18年後の1959=昭和34年だった。市川市八幡町の新居で4月30日没、79歳だった。とはいえ文化勲章を受賞した作家だから荷風の思い通りの<始末>とはいかなかった。天皇陛下から祭祀料の新札3千円が下賜され、自宅で行われた通夜や告別式には大勢の人が詰めかけた。遺骨は両親が眠る雑司ヶ谷墓地に建てられた「永井荷風墓」と刻まれた立派な墓石の下に納められた。

*1897=明治30年  志賀潔が赤痢菌の発見を『細菌学雑誌』に発表した。

仙台藩士の子として生まれた志賀は藩医だった母親の実家、志賀家の養子になった。東京帝大医学部の前身、帝国大学医科大学を卒業し伝染病研究所で北里柴三郎に師事した。赤痢菌の発見は入所2年目の成果で『細菌学雑誌』に発表した論文を翌年ドイツ語で発表したことで世界的に認められ日本人としては唯一、赤痢菌の学名に志賀の名(=Shigella)が冠された。

これ以降の経歴も見事なものだった。ドイツに2度留学、北里が創設した北里研究所に移り慶応義塾大医学部教授に就任、その後は朝鮮総督府医院長、京城医学専門学校長、京城帝国大医学部長、さらに1929=昭和4年には総長になった。2年後に内地に戻ると北里研究所の顧問に就任、1944=昭和19年には文化勲章を授与され仙台市の名誉市民になった。他にもイギリス王立熱帯病学会名誉会員、パスツール研究所賛助会員、ドイツ学士院特別会員、ハーバード大学からは名誉博士号を授与され日本学士院会員でもあった。

志賀は東京大空襲で被災し家財のすべてを失い仙台に疎開して福島県境に近い山元町の別荘に住んでいた。それは「私生活では清貧を貫き、数々の名誉を得ながらも晩年は質素な暮らしに徹している」とされていた。ポートレートの撮影を約束した写真家・土門拳はその別荘を訪ねた。大科学者を想像していたが土門の前に現われたのは意外にも「モンペ姿の小さなおじさん」で「右のレンズが外れたので自分で修繕した」というメガネをかけていた。一度も張り替えたことなどなさそうな障子には大きな穴がいくつも開いていた。

志賀は「命からがら避難したので持ち出せたのはこの文化勲章ぐらいだよ」と破れ畳の上に置いた。1949=昭和24年の土門入魂のシャッターは<清貧>とは程遠い老いの現実を切り取った。土門は「赤貧のボロ畳の上の文化勲章が空しかった」と書き残している。写真が伝えるのは<清貧>なのか<赤貧>なのか、強く印象に残る一枚ではある。

*1912=大正15年  午前1時25分、葉山御用邸で静養中の大正天皇が48歳で逝去した。

宮内省は15日に天皇陛下の病状が容易でないことを発表していたから各新聞は「天皇陛下御異例」とか「御悩重らせ給う」と報道していた。国民は息を詰めるようにひたすら平癒を願い皇居二重橋前には病気回復を祈る多くの国民の姿があった。18日からは帝劇や歌舞伎座をはじめとする一切の興行が中止された。

逝去が発表されると新聞はこぞって号外を出し「天皇崩御」と「新帝践祚(せんそ)」を報じたが東京日日新聞だけは「新元号は光文に決定」と特報した。ところが間もなく政府から「新元号は昭和」と発表されたため幻のスクープというか大誤報になった。

大正の新年号をスクープしたのはのちに朝日新聞の編集長になった緒方竹虎だったが今回は外れてしまった。東京日日の号外に驚いた政府が<第二案>と差し替えたともいわれるがはっきりしない。政府は昭和の元号を「天皇を中心にして国民がまとまり、世界中の国々が協調していくことを意味する」と発表したが激動の時代の幕開けだった。

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