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書斎の漂着本(93)蚤野久蔵 すたこらさっさ(その1)

紀伊国屋書店創業者の田辺茂一は連日連夜、銀座に繰り出し、バーからバーへと飲み歩き華麗な女性関係を繰り広げて<夜の市長>と言われた。ところが「いつ書くのだろう」と思われるほど多くの著作を残した。その代表作をあげるとするとやはり自身の処世術をそのまま題名にした自伝小説『すたこらさっさ』ではあるまいか。昭和48年(1973)3月に出版されると話題を呼び、同じ年の11月に「続」が出された。装丁は人気切り絵画家の宮田雅之だからこの題名部分も切り絵である。

田辺茂一著『すたこらさっさ』(流動刊)

田辺茂一著『すたこらさっさ』(流動刊)

表紙見返しには親交のあった流行作家の梶山季之が一文を寄せている。

この小説は、田辺茂一先生の最初の週刊誌連載小説の筈である。『すたこらさっさ』と言う題名も、先生らしく軽妙ながら、文体にも新しい試みを大胆に駆使して居られるあたり、心憎い次第だ。田辺先生は、粋人として名高いが、志は文学にあると伺っている。それも通り一遍のものではない。われわれ如き駆け出し文士は大いに範としなければならぬ。

梶山は週刊誌などのフリーライターとして活躍し、多くのスクープを手がけて「トップ屋」と呼ばれた。小説家に転身して書いた『黒の試走車』が大ヒットし、長者番付のトップを飾ったことで「稼ぎでもトップ屋に」と書かれた。田辺とは二回り以上(25歳)の年齢差があったのに<駆け出し文士>とへりくだっているのがおもしろい。

『すたこらさっさ』の主人公は本名をもじった田原茂助、生家で紀州備長炭や石炭、コークスなどを扱う薪炭問屋・紀伊国屋は木之国屋としている。幼時の記憶に残る新宿界隈の風景や生家をこう描写する。

新宿停車場も、人っ気少なく、その周囲に、二十数軒の薪炭間屋があり、荷をつけた馬車の轍の、ぬかるみの道路が続いて、人呼んで、馬糞横丁と言っていた。
一歩裏へ入ると、茶畑、田圃、原っぱで、今日の歌舞伎町は鬱蒼とした森林であった。
薪炭問屋木之国屋は五間木造二階建ての店で、小僧、中僧、女中、併せて七、八人の奉公人がいた。

茂助はこの店の跡取りだった。生まれたのは明治38年(1905)2月、日露の大戦争が終わりに近づいたころで、父親は尋常小学校を4年で終え、夜間の正則英語学校に半年通っただけだが神田佐久間河岸の炭屋に奉公していた。実直な働きぶりが認められ、奉公先の親戚筋にあたる栃木県黒磯出身で共立女子職業学校を優秀な成績で卒業した2歳年上の才媛と結婚していた。茂助が生まれた時、23歳だった父親は名付けに窮し、町内の十二社熊野神社の宮司に相談して茂助という名前をつけたという。

このあたり、生まれた年といい父母の経歴といい本人(=田辺茂一)とまったく同じであるが、これはあくまで小説であって主人公の田原茂助が繰り広げる物語なのである。なぜかというと6、7歳で近所の理髪店で聞いた若い職人たちの会話から前夜の遊郭での相手の話であることがわかったり、年始の得意先参りに中僧に連れて行かれた先が新宿、品川、洲崎、吉原の遊郭で、応対に出てきたお女郎さんを「あんまりきれいなのはいないね」と評したり。母と同じ布団に寝るとき、すぐ乳房のあたりをまさぐったり、自分の足を、それとなく母の股間に入れたりして間もなく離れ座敷にひとりで寝るように言い渡されたり。早熟な茂助の<ヰタ・セクスアリスな日々>をこと細かに書いているが、あくまで茂助の、であって、茂一の所業ではないのである。

早生まれの茂助は7歳から町立淀橋尋常小学校に通った。ところが言葉遣いが乱暴になったのを心配した母は2年生から大久保にあった私立高千穂小学校に転入学させた。3年生からは本所から転入学してきたのちの作家・舟橋聖一と一緒になり、中学では同じクラスになった。仲良くなった二人は本屋で茂助はトルストイの翻訳物を買った。
それを見て舟橋は
「そんなの読んでいるのかい。トルストイなんてつまんないだろう。ぼくは嫌いだなあ」
舟橋の言い方には自信らしいものがあって、ちょっとたじろいだ茂助は
「いやぼくだって知らないんだ。今日が初めてだよ。もう読んだのかい?」
あらためてたずねると
「ウム読んだサ。ちっとも面白いとは思わないね」
と言い、茶色のポケット型の絹地本の新汐(潮)文庫の田山花袋『蒲団』を買った。茂助はまだ花袋の名を知らなかった。茂助の場合は健康な性欲をもて余しての小説本の乱読で、のちに発禁になる島田清次郎の『地上』とか生田春月の『相寄る魂』、有島武郎の『或る女』といった<官能路線>だった。

一方では町内にできた市内初の映画館「武蔵野館」に入り浸った。新宿に地下街ができるという噂に対抗して茂助の父ら有力商店主が資金を出し合い完成させた。鉄筋木造3階建ての建物で、茂助も優待パスが出される重役の末席に収まった。客席が満席になると赤い大入り袋が配られるのを父は居間の長火鉢の横に吊るして飾りにしていた。これを母が見とがめて「大入り袋なんか吊るしてあるから茂作の勉強がおろそかになるんです。はがしてしまいましょう」ということになった。思春期の茂助には小説本もだが映画も楽しかったから、この一件を知ってか知らでか、学校から帰ると相変わらず武蔵野館に直行した。座るのはいつも2階正面の特等席、一列目の左側だった。すぐ脇に制服を着た案内嬢が立っていて、かすかな香料の匂いもした。茂助より三つぐらい年上に見えたが、制服のなかの成熟したカラダがすぐそばにある、ということだけでたまらない。場内が明るくなると、スカートの下の太い脚も見える。久留米がすりの中学生の視線を案内嬢のほうも意識する。
「新しいプロ(グラム)ある?」
「あります」
「今日は混んでいるね」
「ええ、とても」
その程度のやりとりではあったが帰ったあとでひとり思い出しては興奮した。

茂助17歳の夏、超チブスで2カ月ほど寝込んだ母があっけなく死んだ。以前、母とはこんなやりとりがあった。
「本屋以外には、なんにもなりたくはありません」
と答える茂助に、その性格を知り抜いて行末を案じていた母は
「本屋になりたければ、なってもいいが、お前は商人にはなれないと思うよ。そんなことをするより、本が好きなら、ただ本を買って、読んでいれば、それでいいじゃないか」
それとは反対に父は長男には炭屋を継がせればいいと考えるだけだったから、母だけが茂助の最大の理解者といえた。学校の成績簿を貰ってくるとすぐ母にだけは見せた。その見せる人は、見せ甲斐のある人はこの世にいない。とすれば、学校の成績なんぞは、もうどうでもいいことであった。

母の死後、茂助の気持ちは荒れた。秋の運動会のプログラムには「中隊訓練」というのがあり、茂助は小隊長を命じられた。運動場を音楽隊に合わせて進み、中央右手の台上にいる校長のところまで来ると、小隊長の声で「頭右っ!!」いっせいに生徒たちが右を向く。校長が挙手で挨拶すると「直れ!!」で、また小隊が進むという段取りである。これを茂助は運動会には無縁のように思った。予行演習で腰にサーベルを下げさせられた茂吉は、声はかけたが自分は前方ばかりを見ていた。校長の怒声が響き渡り、突き飛ばされた茂助は腰の帯皮ごとサーベルを取って思いきり地面にたたきつけた。「サーベル事件」は校内に広まり、校長批判の漢文の教師からは
「田原、よくやったなあ。あれでいいんだよ」
と激励されたが、茂助はそのころから性格も変わった。表よりも裏が人生の真実のようにも考えられた。善良が不良に見え、不良が善良に見えた。倉田百三の『愛と認識の出発』『善の知識』や阿部次郎の『三太郎の日記』をむさぼり『菜根譚』を手にした。

翌年、落第覚悟で受験した一ツ橋は不合格でそのまま5年生に進級した。放課後、週一度は日本橋の三越に出かけ、真っ白いエプロン姿の給仕の少女の胸の番号札で
「30番ってのがとても綺麗なんだ」
「いや17番のほうがいいぞ、すぐ耳を紅くする」
と話題にしたりしたがそこまでだった。

夏休みには九十九里浜の真ん中ほどにある千葉県の一の宮海岸に出かけた。田原家が所有する一万坪を超える地所でキャンプ生活をすることを思いついたからである。さっそく天幕店からテントを取り寄せ、飯盒を用意して缶詰をいっぱい鞄に詰めた。友人の美少年、下田を誘い、二人はデパートで揃いの海水パンツを買った。計画した自炊生活はうまくいかず、地所の管理人夫婦に食事の世話を頼んだ。毎朝、ご飯やみそ汁鍋を運んできたのはそこに東京から避暑に来ていた三姉妹で、12歳の次女アコチャンに淡い恋心を抱いた。

再度受験した一ツ橋はまたまた不合格だったが、三田の慶応義塾が新設した専門部を受験した。予科一年、本科三年の修了で、受験勉強など用意のなかった茂助は、そそくさといい加減な答案を書いた。またダメかと思っているところへ<意外にも>合格の通知が来た。「ペンに勲章のKOボーイか・・・」茂助は特別に嬉しいとも思わなかったが三田へは新宿から市電で通った。四谷塩町、青山一丁目、さらに飯倉で乗り換えて50分で三田に着く。慶応はハイカラな学校と期待していたのに専門部は地方の中学や商業の出身者ばかりで、甚だ泥臭い。数学も歴史も心理も原書ばかりなのが珍しいとはいえ、授業は退屈で教室の後ろであくびばかりしていた。夏休みになると再び一の宮海岸に出かけた。こんど誘ったのは水戸高校に進学していた舟橋である。舟橋は夏の制服に、太い鼻緒の朴歯の下駄をはき、帽子の白線も誇らしげにやってきた。舟橋は茂助が関心をもっていたアコチャンに眼をつけて
「利巧そうだね、いくつだい」
と聞く。
「ウム、ちょっと気に入ってんだ。13だよ、ことし竹早(府立第二高女)に入ったらしい。頭脳(あたま)はよさそうだがね、熟していないのがキズさ。水泳はうまいがね」
「待っていればいいじゃないか」
「四、五年は待てないね」
オカッパの髪の下に見える、頸筋が可愛かった。瞳も澄み利発そうであった。

舟橋が帰ったあと、町まで買い物に行くというアコチャンの付き合い、舟を漕いで出かけた。午後いっぱいの買い物ごとに赤い兵古帯の間から小さいノートを出し、金額を書き入れるのをみて
「ナカナカ家計簿はしっかりしてるね」
と冷やかしたのに対し
「私、お嫁さんになれるかしら」
といわれ、
「提灯を買っていこう。この分だと途中で日がくれちゃうから」
と茂助。櫓を漕ぎながら茂助が
「新世帯を持ったようだね」
「新所帯なんて、新家庭とおっしゃって・・・」
夕暮れのなかで19の少年と13の少女との会話だが、茂助自身はほんとうにアコチャンが嫁に来てくれたなら、と心のうちで思った。帰りはアコチャン一家と同じ汽車で一の宮駅を発った。
「若さん、すっかりアコチャンがお気に入りのようで」
と管理人からささやかれると茂助はちょっと、顔を赤くした。

帰って一日おいて9月1日午前11時、東京は関東大震災に見舞われた。激しい余震が続いた。東京市街の大部分は震災後の延焼で焼失したが、新宿の角筈に近い部分はその厄を免れた。親類知己が茂助の家を頼って大勢避難してきて寝泊まりした。ラジオ放送もなかったころだから得意先や親戚の消息も判明しない。茂助は父の命を受けて自転車に乗って安否を見舞いがてら洲崎の吉原神社を訪ねることになった。まだ夏のきざしの強いさなかだったが火事装束のような刺し子半纏を着込み、握り飯を風呂敷にかたく結んで荷台に縛り付けた。
「気をつけろよ!」
と父から言われ、朝早く家を出た。ところが茂助は目的地ではなく小石川植物園近くにあると聞いていたアコチャンの家へ向った。何をおいても、まずそこへ行き、彼女の安否を確かめたかったのである。

(以下続く)

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