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書斎の漂着本 (61)  蚤野久蔵  ゲバラ日記

昨年=平成26年(2014)12月18日の夕刊各紙は「米・キューバ国交交渉」という大見出しで半世紀以上も敵対関係にあった両国が国交正常化を進めると発表したと伝えた。さすがに高齢のフィデル・カストロ初代国家評議会議長は発表の場に姿を見せなかったが、このニュースでキューバ革命をともに戦ったもう一人の人物を思い出した。39歳でボリビアに没したエルネスト・チェ・ゲバラである。最後に残した日記も確かあったはずと。あらゆることに好奇心を持ち、仲間内でも<情報通>を気取りたくて背伸びしていた学生時代に購入した記憶があったので書庫を探したが見つからなかった。こんな時には忘れていた別の本が出てきてそれを読んだりするから時間がすぐに経ってしまう。暇人とはいえ暮れは何かと忙しい。いったんはあきらめていたものの毎日新聞「余録」の大晦日恒例「いろはカルタで振り返るこの1年」に【れ】レームダックのキューバしのぎ、が。言葉遊びとはいえ人気急落の大統領を<急場しのぎ>とは辛辣だが大掃除も一段落したので再度探すことにした。着なくなった和服などを「タンスのこやし」というが本棚にそれはないよな、などとぶつくさ言いながら探すうち、いちばん奥に押し込んであったのが出てきた。表紙はトレードマークになったひげ面と葉巻をくわえたおなじみのポーズ、昭和43年の朝日新聞社刊の初版本で帯に「わが国初の完訳!」に続き「世界の“革命運動の起爆薬”といわれるゲバラが、伝説的な生涯にふさわしい劇的な死の直前まで書き綴ったゲリラ作戦の克明な陣中日記全文」とある。これこれ、この帯に惹かれて購入したのだった!

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はじめにキューバ革命を<復習>しておくと、長く独裁体制を続けてきた親米のバティスタ政権に対し若者を中心とする反政府勢力が立ち上がり、1953年7月26日にキューバ南東部の都市・サンティアーゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃した。この蜂起は圧倒的な政府軍に制圧され、多くが殺害されてしまう。リーダー格の弁護士フィデル・カストロや弟のラウル・カストロらは裁判にかけられ15年の刑を宣告されて投獄されるが、最初の蜂起を記念して名付けられた「7・26運動」は民衆の支持を受けて本格的な革命運動に広がっていく。その後、恩赦で釈放されたカストロ兄弟らはメキシコに亡命して運動を続け医師だったゲバラに出会う。彼らは56年11月にキューバに上陸後、2年間にわたりゲリラ活動を繰り広げ、59年1月のバティスタのキューバ脱出で革命はようやく終わった。

ゲバラは1927年、アルゼンチン第二の都市ロサリオの裕福な家庭の5人兄弟の長男として生まれた。父親は建築業者、母親はフランス文学に造詣が深いインテリだった。首都ブエノスアイレスに住んでいた2歳のときに肺炎をこじらせて終生苦しめられることになる最初のぜんそく発作を起こす。病気と折り合いをつけながら水泳、ラグビー、ゴルフなどのスポーツに打ち込む一方では猛烈な読書家でもあった。大学時代はオートバイで国内外を旅行し、自身のアレルギー体質について論文を書き、医師の資格を取った。ゲバラを変えたのは2回目のラテンアメリカ放浪旅行で、ボリビアやエクアドル、コスタリカ、グアテマラと革命運動が燃えさかる南米諸国を回った。ボリビアでは革命家たちの堕落に失望したが巻き込まれたインディオたちも孤立と貧困にあえいでいた。常に巨大大国・アメリカの大資本の支配がつきまとっていたからでもある。学んだのは平和的な手段だけで権力を握り、それを維持することは極めて困難であるという厳しい現実だった。続いてエクアドルからパナマへ、さらにコスタリカへ。ここはラテンアメリカ諸国からやってきた亡命者が多く、キューバの反体制運動家らとの出会いが彼の人生を変えた。グアテマラでは革命の終盤に民兵として参加、その帰趨を見届けてメキシコへ渡る。ここで亡命中のカストロら革命闘士と運命的な出会いを果たすとキューバ革命の闘士に名乗りを上げた。潜入後は有能なゲリラ指導者として、政権奪取後は国立銀行総裁、工業相など常に革命指導者の最左翼としてキューバを社会主義国家へと導いていった。                                                                                                                                              img092 img094                                                                                                                                                                                 
 
葉巻をくわえた表紙の写真といい、「革明児の素顔」と題されたこの2枚にしてもキューバ革命を成し遂げたあとの絶頂期の姿に思える。「チェ」とはキューバの人々が愛情を込めて彼につけた愛称だった。その後、急激な工業化などのためには大国の援助を必要とするというカストロら首脳部との路線の対立などもあってゲバラは再び「ゲリラ戦士」への道を歩むことを選択する。あるいは根っからのボヘミアンというか放浪癖がある性格だったか。選んだのは「南米大陸の重心」でもあり、ペルー、アルゼンチンなど五つの国と境を接するボリビアだった。この国は時の権力である政府が弱体な軍隊しか持っていなかったから革命を成功させるにはもってこいという読みもあったのだろう。入国したのは66年9月、2ヶ月後、ゲバラは東方低地のカミリ北方約80キロのニャカウアス渓谷に到着した。日記はここから始まる。

序文を寄せたカストロは、自分の日記に毎日気のついたことを書きとめておくのは、ゲリラとして活動していたころのチェ(=ゲバラ)の習慣だった。けわしい、歩きにくい土地を越え、湿気の多いジャングルを通っての長い行軍のさなかに、背のう、弾薬、武器の重みでいつも背をかがめたゲリラの隊列がしばしの休息をとる時、また、長い一日の行程のおわりで、隊に停止、野営の命令が下りる時、いつもチェがノートを取り出す姿が見かけられたと書く。

彼は、医者特有の小さなほとんど読めないくらいの字で、覚え書きを書きとめるのだ。日々に起った主な出来事を書きとめておくという彼の変わらぬ習慣のおかげで、ボリビアでの彼の英雄的な最後の数か月に関する、厳しいまでに正確で、貴重なくわしい記録を、われわれは手にすることができた。こうした記録は、正確には公刊を目的として書かれたものではないが、事件や状況、部下たちを日日評価する上での活動指針として、役に立った。また、分析的ではあるが、しばしばユーモアの繊細な感覚を織りまぜたよく気のつく彼の精神にとって、表現のはけ口としても役立った。これは節度をもって書かれ、初めからしまいまで、中断することのない一貫性を持っている、とも。

<1966年11月>
7日:きょうから新段階がはじまった。夜になって、農場に到着した。この旅はなかなかうまくいって。コチャバンバからはいって、うまく仮装したパチェンゴと私は、必要な接触をとったあと、2台のジープで2日間の旅に出たのだ。

12日:事件なし。私の髪はまだまばらだが、だんだんのびてきた。灰色に染めた髪も、ようやくブロンドに戻った。ヒゲものびてきたし、2か月もすれば、また、元の私にもどるだろう。

おびただしいほど多くの人名が書かれているので「日記に登場する主な人たち」という二つ折りのリストまで付いているが、煩瑣になるので見出しだけを拾うことにする。

12月、キューバ人の組織を完了/全員を集め、人事を行う/雨・・・ほら穴作業・・・雨
<1967年>
1月、ぐらつく党の態度/学習の必要性を説く/不断に練る防衛計画/ボリビア人組入れ難航
2月、イカダでの渡河に苦心/道を切り開きつつ前進/隊員に初の犠牲者
3月、新しい試練の月/衰えゆく隊員の士気/政府軍将校を捕虜に/せばまる?包囲網
4月、四つの戦闘で成果/政府軍偵察隊と戦闘/新聞記者に会う/最高の兵士を失う
5月、むずかしい農民の組み入れ/逮捕されたロロ=隊員/腹痛で意識失う
6月、連絡は途絶え兵士は不足/食糧不足に悩む/リオグランデ目指して/ツマ=隊員を埋葬
7月、総勢たった22人/政府軍陣地を奪う/砲火の中を撤退。
8月、ゲリラ戦に最悪の月/ぜんそくに苦しみつつ/重要なほら穴を失う
9月、5万ペソの賞金かかる/食べ物でいざこざ/反応示さぬ農民/敗北の日々
10月、水の不足に悩む/天国の味・コーヒー

そして書き始めから11ヵ月後の同じく10月
7日:われわれ17人は欠け始めた月の光の中を出発した。行進はうんざりだった。いままでいた渓谷には、われわれが野営した痕跡をたくさん残してきた。近くには家はみえない。しかしあの川の水でかんがいしたジャガイモ畑がいくらかある。2時に休む。これ以上前進するのは無益だった。夜歩かねばならないときには(負傷した)チーノは本当にお荷物になる。軍はわれわれの数を37人だといい、包囲した地帯からの出口を押さえるためセラノに250人を配置したという奇妙な情報を流している。われわれの潜伏個所はアセロ川とオロ川の間だというのだ。このニュースは注意をそらすためのように思われる。
標高・2000メートル。

これを最後に日記は終わっている。次の日、狭い峡谷の中で「敵」の大部隊と交戦した。ここで大半の仲間を失い、ゲバラも撃たれて足に傷を負ったが数日間は持ちこたえていた。捕えられたとき、持っていたM2ライフルの銃身は弾丸が当たって折れて使い物にならず、ピストルにも弾は残っていなかった。最後の最後まで抵抗したわけだ。地元の町に移されてからも傷そのものは致命傷ではなかったので24時間以上は生きていた。酔っ払いの将校には平手打ちを食わせたともいわれ、処刑を命じられた別の将校が動揺しているのを見るとしっかりとこう言った。「撃て、恐れるな!」。その将校はようやく腰だめに機関銃を発射した。ゲリラの胸や頭部は撃つなという命令があったのでゲバラの苦しみは残酷なまでに長引き、最後は酔っぱらった軍曹が左の脇腹にピストルを発射、動かなくなった。

裏表紙の写真、中左の黒枠で囲まれているのが「死顔」である。目は開いたままで微笑んでいるようにも見える。

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カストロはゲバラの最後について序文でさらに「チェが捕虜として捕えたボリビア陸軍のたくさんの将校や兵士たちの生命に対し、一つの例外もなく払った尊重の念と、まったく野蛮な対照をなしている。彼が軽蔑していた敵の手に捕えられてから死ぬまでの生前最後の数時間は、彼にとって非常につらいものであったに違いない。だが、チェほど、こうした試練に耐える心の準備をしていた者はいなかった」として最後は「永遠の勝利の日まで!」と結んでいる。

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