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“1月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*901=延喜元年  右大臣として権勢をふるった菅原道真が突然、九州・太宰府に左遷された。

もともと菅原家は「文章博士」などをつとめ政治より学問で朝廷に仕えてきた家柄だった。道真も当初はそうだったが宇多天皇に才能を見込まれ重用されたことで運命が変わった。天皇は藤原氏の増長を何とか抑えようと道真の才能を利用した。子の醍醐天皇の時代には右大臣に昇り詰めるがここで藤原氏一族の巻き返しに遭う。左大臣・藤原時平らの讒言説、つまり<告げ口>である。天皇への権力集中をはかる道真の政治改革を何より煙たがった藤原氏が焚きつけたとされる。

真に受けた醍醐天皇から道真に下されたのは「罪により太宰権帥(ごんのそち)を命ず」。太宰府は九州を統括する役所とはいえ権帥は一地方官に過ぎない。左遷に驚いた道真は「流れ行く吾は水屑となりぬとも君柵(しがらみ)となりてとどめよ」と宇多法皇に訴えたが、法王も時平らに妨げられてなすすべもなかった。

道真は2月1日に後ろ髪を引かれる一首を残して庭に梅が咲き始めた京の邸をあとにする。
  東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花
  あるじなしとて 春を忘るな (『拾遺和歌集』)

筑紫への途中、いまの阪急京都線の駅もある大阪・淡路あたりで一行はここを<淡路島と勘違いして上陸した>という故事や菅原の地名が残る。当時は淀川の広大な中州が広がっていたがいくらなんでもそれはないだろうと思うけど。

明石の駅では以前とは様変わりしてやつれ果てた道真の姿に驚いた駅長に「駅長莫驚時変改一栄一落是春秋」と詠んで与えた。まさに莫驚時変改、時があっという間に変わるのを驚きなさるな、は正直な心情吐露だったろう。

*1879=明治12年  大阪・江戸掘南通1丁目の間口2間半の借家で朝日新聞が創刊された。

創始者は同じ江戸掘の醤油問屋木村平八、長男・騰(のぼる)親子で「朝日」の由来は「毎朝、早く配達されることでいち早く人が手にする新聞である」とされる。大阪特有の「むしこ造り」の低い2階建ての1階奥の6畳が社長室兼会議室、中の4畳半が営業局、表の6畳が印刷場で活字ケースは通り庭の井戸端に置かれ2階は編集室にあてられていた。

創刊号の社告に「弊社新聞今明日両日の間は無代価を以て進呈仕候猶引続発兌仕候新聞御注文の儀は配達人を以て御用伺はせ候」とあり、定価1銭、月決め18銭、祭日と毎月曜日が休業だった。記事で面白いのは「稲荷寿司の元祖」で明治初年に天満の亀の池のそばで木下喜八なる人物が始めたと紹介している。<木村つながり>であるいは縁戚だったか。当時の発行部数は3千部、1時間に5百部程度の手刷印刷機が未明から動いていた。

2年後に村山龍平が木村親子から経営権を譲り受け、政府と三井銀行から<極秘裡>に資金援助を受け経営基盤を安定させると1888=明治21年に「めざまし新聞」を買収して東京進出を果たした。

*1791=寛政3年  幕府は江戸の入込み湯屋=銭湯の混浴を禁止するお触れを出した。

松平定信の寛政改革における風俗統制の一環で「入込湯停止令」と呼ばれる。「入込之儀ハ、一体風俗之為ニ不宜事」と風俗としてよろしからぬので女湯を新設するか日を限って別々にするよう命じる内容だった。江戸時代のはじめには男性は湯屋に通ったが主婦や子供は自宅での行水で済ますのが一般的だったとされるが寒い冬場はそうはいかない。やがて湯屋も増えたろうが一軒の湯屋には浴槽がひとつだけで入込みは自然の流れだったか。

米国海軍の軍人だったペリーは静岡・下田での見聞を『日本遠征記』にこう書き残した。

「ある共同浴場では男女が裸体をものともせず、混浴していた光景はアメリカ人にはこの土地の人々の道徳心についてあまり好ましくない印象を与えた。これは日本中で行われている風習ではないかもしれない。事実、われわれの身近にいる日本人はそうではないと言っている」

通詞があるいは「混浴はここ下田くらいですよ」と説明したかもしれないがよほど奇異に思ったのか、挿絵に銭湯のスケッチを残している。しかも同行の絵師はちらりと見てではなく時間をかけて克明に描いているから彼らにとってよほどの<カルチャーショック>だったのは間違いない。

もっとも女湯は混み合う上、やかましいからといって男湯に入ってくる女性もいたようで
  物騒と知って合点の入込み湯
という江戸川柳もあります。

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