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池内 紀の旅みやげ(46)豊前のグランド・キャニオンー福岡県香春町

無人駅でおりて駅前広場へ出たとたん、足がとまった。正面の高みに奇妙なものがあって、しばらくまじまじとながめていた。判断がつかなかったからである。岸壁が削(そ)いだようにのびていて、一カ所がパックリ口をあけ、そこだけが白い。一瞬、アメリカ・アリゾナ州のグランド・キャニオンを連想した。写真で見ただけだが、似たような形のところがあった。ただし、グランド・キャニオンは渓谷で、水面から突き出ていたと思う。こちらの岸壁は石の砦のように山上に乗っていた。
福岡県田川郡香春町(かわらまち)。小倉から日田彦山線で約三十分。古くからひらけていて、万葉集にもうたわれている。「豊国の香春は吾家(わぎへ) 紐児(ひものこ)にい交(つが)り居れば香春は吾家」(巻九、一七六七)。昔は豊前国(ぶぜんのくに)香春である。岩山を香春岳といって、麓に鏡山(かがみやま)という地名がのこっている。万葉集にはまた「河内王を豊前国鏡山に葬りし時手持女王の作れる歌三首」が収録されており、河内王という貴人が当地に葬られ、ゆかりに女性が歌にした。その一つ。「王(おおかみ)の親魂(むつたま)会へや豊国の鏡の山を宮と定むる」
そんなことを本で知って、奈良の飛鳥(あすか)のような万葉振りの土地を想像してやってきたのに、和製グランド・キャニオンと出くわすとは思わなかった。

福岡県のグランド・キャニオン 香春町の香春岳の山容はなかなかの迫力です。

福岡県のグランド・キャニオン 香春町の香春岳の山容はなかなかの迫力です。

地図によると香春岳は一の岳、二の岳、三の岳と岩峰がつらなっていて、町から見えるのは一の岳のようだ。全山が石灰質でできており、パックリと口をあけたのが砕石場で、よく見ると中腹に塔のようなものがあって、砕石を運ぶベルトコンベアが川沿いに向けてのびている。標高は五〇〇メートルあまりだが、異彩を放つ岩山である。古人は特別の山と考え、麓に貴人を葬ったのだろう。
「鏡山」のほか、近くには「勾金(まがりがね)」という地名もあって、鏡山ー勾金ー香春とくると、早くに鉱石の採掘がはじまり、工人の集落ができていったのではあるまいか。鏡山には神功皇后が新羅に出兵するとき、必勝を祈願した丘があって、神社が祀られている。近くに銅山の抗口にあたる「間歩(まぶ)」が残されており、その銅で宇佐神宮の神鏡を鋳造したところから「神間歩(かんまぶ)」と呼ばれているーー
タクシーでひと廻りしたいのだが、無人駅の駅前に人影がなく、タクシーの看板もない。仕方がないので川を渡って、古い通りに入った。
「従是南豊後日田道」
空地のわきの石柱によって、この道が豊後と結ぶ街道だったことがわかる。少し行くと赤レンガの塀の前に「御茶屋香春藩庁跡」の石柱が立っていた。江戸時代は小倉藩に属し、藩主の領内巡見のための宿泊所として、御茶屋があった。幕末の混乱期に、そこが小倉藩の藩庁をつとめたことから、こんな二重の命名になったらしい。
さらに行くと、ちょっとした更地がひらけ、中央の奥まったところに三段式の石柱がある。とにかく石柱の多いところである。

田川郡役所跡

香春町役場跡

明治末年に田川郡の郡役所が置かれ、郡制廃止ののちに町役場として使われていた。さぞかし古雅ないい建物だったと思うが、取り壊して更地にした。山を背にしており、公園にするとステキな憩いの場になると思うが、町当局は業者に売り払ったようだ。大きなけばけばしい不動産広告が立ててあった。
「旧香春町役場跡地 宅地分譲開始!」石柱のある小さな一角だけをのこして、全十区画、「プラチナタウン」という。山おろしの風にまっ赤な「分譲中」の旗が音をたててはためいていた。
一つ一つはっきり覚えているのは、ここにくるまで誰とも会わず、まるきり人の姿を見なかったせいである。町の通りには「肉のまつかわ」「仕出し 鉢盛」「長谷川療術院」「鮮魚 刺身」「宝石 時計」……古びた看板がつづくだけで、どこもシャッターが下り、カーテンが引きまわしてある。シャッター自体が錆つき、カーテンが陽にやけて黄ばんでいた。ふつうどんなにさびれた街でも、美容院と理髪店は営業しているものだが、理髪店のガラス戸に手書きの「おわび」が貼ってあった。病気療養のため店を閉じるという。最後の砦が落ちたぐあいだ。ひとけのない通りに午後の陽ざしがさしかけ、建物の影がギザギザ模様をえがいていて、そこをノラ猫がゆっくり歩いていく。
まるで白昼夢のようだった。辺りは無人の町のように静まり返っている。そのうち軽トラが一台走ってきて、走り去った。

福岡県の香春町。かつてあった光願寺の庭にいにしえの記憶を抱え込んだ大楠の木が頑張っていた。

福岡県の香春町。かつてあった光願寺の庭にいにしえの記憶を抱え込んだ大楠の木が頑張っていた。

かつて山の背に光願寺という寺があった。キリスト教禁令のとき、その寺の庭で宗門改めの踏絵が行なわれたという。豪雨で山が崩れて、廃寺になったが、山門前の樟(くす)だけがのこっていた。幹は空洞だが、急斜面にしっかり根を張り、四方に枝をのばしている。樟の小花は白っぽい黄色で美しい。秋に実をつけて、樟脳(しょうのう)のもとになる。無人のキャニオンを見張っている番人のようで、見上げていると、なにやらいとしい気がしてくるのだった。

【今回のアクセス:香春岳は登れるのだろうが、とっつきの道がわからなかった】

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