1. HOME
  2. ブログ
  3. 池内 紀の旅みやげ(43)江戸の掘抜──山梨県河口湖

池内 紀の旅みやげ(43)江戸の掘抜──山梨県河口湖

大きな川や湖には水量を示すスケールが立てられているものだ。専門用語でどういうのか知らないが、目盛りを刻んだ細い板であって、大きな物差し状のものが水からスックと突き立っている。
ときおり、そのタテの標識版に小さな横板がついている。洪水や増水のときの異常水位を示すもので、利根川などには何本もの横板がついており、洪水常習地帯だったことを伝えている。
これは河口湖のもので、上の横板には「昭和十三年洪水高3・07m」、下には「昭和十年洪水高2・50m」と記されている。数字上はたいしたこととも思えないが、見上げる横板の高さよりして、そこまで満々と水があったと思うと、ただならぬ風景だったにちがいない。

河口湖の水量計。

河口湖の水量計。

それ自体は何でもない標識だが、まさにその水量をめぐり、二百年近くに及んで汗と血をしぼるような土木工事が行なわれたことを思い出すと、様相が大いにちがってくる。
歴史の本には「河口湖掘抜(ほりぬき)」として出てくる。河口湖畔の船津から、山一つ向うの赤坂までトンネルを掘り、水を送ろうというのだ。湖畔の村々は毎年のように洪水で苦しんでいた。一方、山向うの新倉村は水に乏しく、こちらは旱魃に悩まされた。
立ちはだかる山を動かすことはできないが、水を通す穴を掘ることはできる。一本の隧道が治水と水利の効用をもち、二つの苦しみを一挙に解決できる。
元禄三年(一六九〇)、郡内領主秋元但馬守喬和(たかかず)の命により、全長約四キロに及ぶ掘抜き工事が始まった。道具といえばせいぜいのところ鶴嘴(つるはし)や石鑿(いしのみ)ぐらいで、クワとモッコが補助をする。堅い岩盤は「焼堀り」といって、その上で火を燃やし、石質を軟化させてから崩していった。煙の処理のために竪穴を掘った。竪穴は土砂の搬出や、進路の確認のためにも必要で、深さ四メートルから二十三メートルに及ぶものが計九本つくられた。
取水口と出口の双方から掘りすすめ、中で合わさるはずが、当時の測量技術のせいだろう、隧道は大きな食い違いをみせて合わさらなかった。
期待が大きければ、落胆も大きい。隧道熱は一挙にさめて、以後、放置されていたが、弘化四年(一八四七)、工事再開。部分的に旧隧道を改修しつつ新しく掘りすすめ、六年後についに完成。悲願の通水をみた。しかしながら水位の見つもりに計算ちがいがあったとみえて、水量に乏しく、増水対策、開田のいずれにもさほど効用をみせてくれない。文久三年(一八六二)、みたび工事にとりかかり、三年後に完了。ようやく大量の水が湖から山向うへと送られて新田を誕生させた。着工から数えると一七〇余年後のことだった。元禄年間のことがほとんどわからず、弘化以後の記録だが、総工費一二〇〇〇両、総労役のべ一〇余万人とある。もっぱら人海戦術で土木史上に珍しいトンネル工事をやってのけた。
現在の船津は河口湖遊覧船発着所であって、小公園、土産店、旅館が並んでいる。天皇お泊まりの由緒を誇る河口湖ホテルもすぐそばだ。冨士レークホテル、山梨宝石博物館、「湖上の女神」、河口湖ハーブ館……。誰もがリゾート地の観光に忙しく、掘抜工事の由来などには関心を抱かない。観光地図には、華やかなエリアの中の一点のシミのように「河口湖新倉掘抜史跡館」とある。
富士急の終着河口湖駅のやや東かたに「新倉」の三叉路がある。しかし、そこから船津までは一キロたらずであって、旱魃で苦しんだ旧新倉村ではないだろう。史跡館のあるのは船津三叉路から湖に出る手前、旅館街の入口の山沿いで、黒々とした溶岩のかさなり合う斜面にポッカリと穴が口をあけていて、中に石仏が祀られている。すでに地形が大きく変わってしまって、取水口がどこにあったのかも判然としないが、石仏のある穴は掘抜の一部にちがいない。
かたわらの古びた建物の奥まったところに、通り側とは別の入口があって、「日本最長手掘トンネル 河口湖掘抜史跡館」の看板があって、「入館料 大人500円 小人300円」。しかし、入口にはさびついたシャッターが下りていて、看板自体も放置されたぐあいなのだ。開館時間が黒く消されており、史跡館というよりも正確には「史跡館史跡」というべきものかもしれない。

日本最長手掘トンネル河口湖掘抜史跡館の史跡ですか?

日本最長手掘トンネル河口湖掘抜史跡館の史跡ですか?

冨士五湖のうち、河口湖は賑やかだが、一つ西の西湖はもの静かな湖である。南には広大な青木ヶ原の樹海、北は十二ヶ岳をはじめとする山々。先だって周遊バスに乗って西湖を一周してきた。そのあと、気になったので船津で下りて、数年ぶりに「掘抜史跡館」の前に佇み、黒々とした石の重なりと、ポッカリと口をあけた穴をひとしきりながめていた。
前代未聞の土木工事は噂をよんで、工事現場には連日、多くの見物客がつめかけていたのではなかろうか。風雲急を告げる幕末にあって、風光明媚な湖畔の山で、フシギな隧道工事が進んでいた。当事者は神に祈る思いで見守っていたのかもしれないが、民衆には多少とも風変わりな祭礼である。その点では「日本最長手掘トンネル」の多少ともショー的なキャッチフレーズは、トンネルの一面を要約しているかもしれない。
それはともかく、前近代の土木技術がみせた貴重な成果の一つである。町当局は資料をまとめ、残された隧道を整備して、「水の物差し」にかかわる過去の記憶を、きちんと残す必要があるのではなかろうか。

【今回のアクセス:】富士急・河口湖駅よりゆっくり歩いて十分たらず。河口湖町教育委員会の説明板がある。

関連記事