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連載 ジャパネスク●JAPANESQUE かたちで読む<日本>7 柴崎信三

〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

7 〈陶酔〉について

     山田耕筰と北原白秋の1940年

勝鬨橋の夜景(東京・築地、1940年竣工)

勝鬨橋の夜景(東京・築地、1940年竣工)

 芒種と呼ばれる季節である。隅田川を見下ろす高層ビルの十四階にあるオフィスから、團伊玖磨は勝鬨橋を行き交う車の流れを見つめている。細かい雨が窓を打って、滴を硝子に落としている。行き交う船を通すために、かつては定時に交通を遮断して中央から橋げたを跳ね上げたこの橋は、いまは重く閉ざされて開く気配がない。

 目を遠くへ移せば、開通を控えたレインボーブリッジが雨に霞みながら大きな弧を描くように東京湾を横切っている。晴海の埠頭の白い巨船は入港したクルーズ船だろうか。

 昭和が平成に改まったばかりの初夏が近づいている。パイプをくわえて眼下の見慣れた橋を眺めているうちに、團は遥かな少年の日の記憶を呼び起す。

 日露戦争で旅順要塞の陥落を記念して作られた渡船場に、月島の埋め立て地をつないだ可動橋を設ける工事が始まったのは1933(昭和8)年である。それから7年を経た1940(昭和15)年の6月14日、きょうと同じような芒種の季節に橋は完成した。総力戦体制へ向かって「皇紀2600年」を記念する国家行事が相次いで開かれた年である。

隅田川を大型船が航行できるように設計されたこの跳開橋は、航行時に晴海通りの交通が遮断され、中央部から橋が切り離されて八の字に開く奇抜な眺めが評判になった。この年、月島地区で開催が予定されていた日本万国博覧会の会場へつなぐ橋でもあり、その名が示すように戦勝と国威発揚へ向けた、戦時下の人々の心象を映した橋でもあった。

勝鬨橋が開通したその日、16歳で音楽の道を歩みはじめた中学生だった團は、麻布の自宅から友人たちと自転車を飛ばして見物に出かけた。一日5回ずつ20分間、246㍍の鋼鉄で出来た橋が中央から電動式で持ちあがり、70秒で跳ね上がって左右に直立する。その間の水路を大型の船舶が白波を立てて航行してゆく眺めは、壮観だった。

 

 この橋を眺めながら、若い日の自分を音楽の道へ導いた師の作曲家、山田耕筰のことを思い起こしたのは、日本人による初めての交響曲として知られるその作品に「勝鬨と平和」があることにくわえて、1940年という不思議な年の記憶が重なるからであろう。

 前年の1939(昭和14)年の、やはり芒種の季節だった。

 音楽が好きで「どうしても作曲家になりたい」という熱意に、美術史学者の父、伊能は「それなら山田耕筰先生にまず素質を見てもらおう」といって15歳の團を伴い、当時すでに飛ぶ鳥を落とす勢いの作曲家だった旧知の山田を、赤坂檜町の自宅に訪ねた。

 父の考えは息子の計画を断念させることだった。時代と未知の才能を考えれば、作曲家への道は無謀というほかはない。山田から引導を渡されれば、息子も諦めるであろう、と。応接間でまみえた山田は、例の禿げ頭に大きな目玉を剥いて作曲中のオペラ「黒船」(夜明け)についてひとしきり話したあと、「坊や、こっちへ来なさい」と團を縁側に導いた。

 そして、両手に少年の顔をはさんでじっくり眺めまわしてこういった。

 「この子には作曲をやらせましょう」

 まことにあっけない託宣であった。父は茫然としていた。このころ山田は星占いや人相占いに凝っていて、『生まれ月の神秘』などの本まで書いている。事前に断念させることを父と約束しながら、それを破って團を作曲への道へ導いたのはその直感に負っている。

 「からたちの花」で知られる作曲家、山田耕筰の境涯は、日本と西洋の出会いと亀裂を象徴するかのように、評価の振幅と褒貶に包まれている。それはいくつもの戦争を挟んで西洋音楽を日本の風土から生みだそうとしたこの音楽家と時代の困難、と言い換えるべきかもしれない。以降、近くに接しつつ時には遠くに離れてその歩みを追いかけてきた團の追憶のなかで、山田の後ろ姿は遠い海嘯のような「昭和」の残響に包まれている。

 

〈ジーザス、ラスミー、ジッサイノー/ホーライ、バイブル、テスミッソー〉

「これが私の得意な歌であった」と山田は記している。

Jesus loves me this I know(主われを愛す)という英語の賛美歌に幼い日に親しんで、意味も知らぬまま諳んじて歌っていたのである。

クリスチャンの家庭で、築地の居留地の宣教師館や横須賀などへ移り住んだ少年の耳には、いつも教会の讃美歌と鎮守府の勇壮な軍楽が響いていた。表向きは伝道のため、という父は不在勝ちで、折り合いのよくない家庭から愛情を受け止めた記憶が乏しく、心を寄せたのは年の離れた姉たちであった。その寵愛に囲まれた花園は、ほどなく父の死によって断たれる。養子に出された耕筰は東京・巣鴨にあったキリスト教の苦学生に対する救済施設「自営館」に預けられて、活版工場で働きながら学ぶ日々を過ごすことになる。

教会と活版工場と夜学校が一体となったこの「自営館」は、季節になると純白の花が咲き誇る枳殻の生垣で囲まれた広い敷地にあって、十代の少年たちが朝から文選箱と印刷機の前に立った。彼等は授業が終わるとくたびれた体を夜学の教室に運ぶのだった。

ここがやがてのちに、盟友だった北原白秋の詞想を得て、山田の生涯を代表する歌曲となる「からたちの花」を生んだ故郷になる。

 

からたちの花が咲いたよ。/白い白い花が咲いたよ。
からたちのとげはいたいよ。/靑い靑い針のとげだよ。

 

よく知られたこの抒情歌が「赤い鳥」に公表されたのは、それから遥かに時代を下った1924(大正13)である。もとより、この歌の詞は白秋が柳川の少年の頃の思い出を重ねて書いたものといわれるが、それは山田の「自営館」の少年時代の記憶が色濃く投影された作品でもある。それは嫋々とした旋律にのせたこの歌の最後の連の「からたちのそばで泣いたよ」にみえる。
からたちのそばで泣いたよ。/みんなみんなやさしかつたよ。
からたちの花が咲いたよ。/白い白い花が咲いたよ。

 

〈枳殻の、白い花、青い棘、そしてあのまろい金の実、それは自営館生活におけるノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって詩化され、あの歌となったのだ〉

 

戦後の回想でこのように振り返る山田のまなざしには、遠ざかった若い日への記憶の美化がもちろんある。いま読み返すと、自伝などに記された山田の人生への過剰な感激や詠嘆には、いささか鼻白むところも少なくない。しかし親元から放逐され、別れた母を恋いながらなじまない年上の職工からいじめられて独り嗚咽したという、山田の痛ましい「自営館」の青春への悔恨が「からたちの花」の出発点にあることは、おそらく疑う事は出来まい。この浪漫と哀歓の過剰性にこそ、山田の音楽の起点があるといってもいい。

山田と白秋はこの歌を作った頃に雑誌「詩と音楽」を立ち上げ、詩人と作曲家のコラボレーションによる童謡を通して、日本語と西洋音楽の融合を目指す深い友情で結ばれていった。のちに山田はこの関係を夫婦に見立てて「詩人は夫であり、作曲家は妻である」といっている。白秋は戦時下の1942(昭和17)年に57歳で没したが、山田は追悼文でこの「夫婦」の関係が深まったころを振り返っている。

 

〈当時白秋は象徴詩から小唄、民謡に奔つたばかり、ひたすら日本的簡素と侘と気韻の世界にあこがれる新流風に向ひ、文人画めいた風雅の裡に芸術と生命を求めてゐた。私は彼が青年期の異国趣味、官能描写、浪漫的情感の噴出から次第に日本趣味に変わつて行き、詩の色彩も幻惑的な油絵風から水墨風に変化した時代に、自分の愛する夫を見出した訳である〉

 

同時代に詩と音楽で結ばれた「夫婦」は、少年期への郷愁で彩られた「モダンな抒情」を歌曲によって描き上げた。それは日本の「近代」という時代に底流する人々の憧れと哀しみを掘り起こして、香り高く歌いあげたというべきだろう。

 

 この道はいつか来た道、/ああ、そうだよ、/あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘/ああ、そうだよ、/ほら、白い時計台だよ

 

このコンビのもう一つの代表作、「この道」は、白秋の詞が1926(大正15)年に書かれており、耕筰が翌年に曲をつけた。こちらは白秋が舞台を「北海道風景」と明示しているが、詩に散りばめられてアカシヤの花や時計台、馬車といった風景と、緩やかで明るい抒情的な旋律には、遠く「西洋」を夢見るモダニズムが息衝いている。

このような西欧への憧れと故郷への郷愁で結ばれた、耕筰と白秋という音楽と詩の「夫婦」がやがて、日本が戦時体制へ向かうなかで国民を戦勝へ動員し、欧米を敵と仰いで「皇国」を鼓舞する翼賛芸術家に、こぞって変身していく。それはなぜであったのか。

 

不遇と孤独のなかで若い耕筰に育った音楽への情熱の焔は、多くの僥倖というべき人との出会いを得て羽根を広げて行った。一人は長姉の恒子が結婚した英国人の教会音楽家、エドワード・ガントレットである。岡山の六高に勤務していたこの義兄から、山田は西洋音楽の基礎にふれて、東京音楽学校への進学を果たした。

日本の女性ピアニストの草分けである幸田延、のちに日本を代表するプリマドンナとなる三浦環といった才媛、ドイツ人のヴァイオリニストのオーグスト・ユンケルをはじめとする外国人教師ら、錚々たる顔ぶれが、当時の音楽学校の教壇に立っていた。ようやく音楽に正面から向き合いながら、同級生たちと親しんで悪戯や失敗を繰り返す上野の山の奔放な青春は、山田にとって日本で初の作曲家として〈世界〉へ羽ばたく跳躍台であった。

東京音楽学校を卒業した山田は、三菱財閥の岩崎小弥太の援助を得て1910(明治43)年にドイツ留学でベルリンの地を踏む。もともと奔放不羈なコスモポリタンといった性格であり、「国家有為の人になって下さい」と励ます岩崎に対して「国家の役に立つ前に、まず自分を完成させたいのです」と答えて平然としているような青年であった。

シュプレ河を望む下宿から王立音楽学院に学ぶベルリンでの青春は、失意と波乱と浪漫が交錯する疾風怒涛の日々であった。祖国に置いた恋人、徳子との別れと帝劇の女優の村上菊尾との婚約、その解消と下宿先の娘のドロテアとの婚約といった、目まぐるしい女性遍歴はついに生涯にわたった。失った母を恋うように多情で女性に惚れやすい山田の持ち前の性格に加えて、自由でデカダンスな留学生活が拍車をかけた。風評は祖国に伝わり、恩人の岩崎から留学の援助の打ち切りを伝えられても、たじろぐことはなかった。

リヒャルト・シュトラウスに憧れながら、高いレッスン料に直接指導を受けることはかなわなかったが、その影響を濃厚に受けたといわれる交響曲へ長調「勝鬨と平和」を完成させたのは1912(大正元)年、滞独二年目の夏であった。この日本人の手になる初の交響曲は、第一次大戦の勃発という世情を背景にして後期ロマン派の香りを濃厚に伝える作品として、日本の近代音楽史に大きな足跡を残すことになる。

オペラの洗礼もここで受けた。ベルリン歌劇場でシュトラウスの「サロメ」や「薔薇の騎士」、そして交響詩の「ツァラツゥストラはかく語りき」などを追いかけるようにして見た。そこから日本の伝統である歌舞伎を素材に活かして坪内逍遥の「堕ちたる天女」を仕上げたのもこの年である。これも日本人の創作による初のオペラ作品として知られるが、ようやく全曲が上演されるのは帰国してから17年を経た1929(昭和4)年のことである。

10年ほどのちに欧米各地を巡った折、ニューヨークのカーネギーホールでシュトラウスの演奏会に招かれ、この思い焦がれた巨匠との対面を果たした感激を山田は記している。

 

〈シトラウスと私との会見は、五分間ばかりで終わりました。しかし短時間であっても、この会見は、私にとっては何ものにもかへがたい貴重な時間でした。十年間別れていた恋人と再会したような心もちで、私は時間の許すかぎり、私の心のありったけを語りました。十何年前に、王立歌劇場で初めてシトラウスを聴いて、どれほど私が感激したかといふこと、ニージンスキーの踊りの夜、そのあとをしたって、ウンター・デン・リンデンのWeinstubeまで、シトラウスを尾行したといふこと、敬慕のあまり、師事しようと決心して果たさなかったことなど……〉(“リヒアルト・シトラウスの印象”「詩と音楽」1923年)

 

後期ロマン派の代表的作曲家として交響詩や歌劇、交響曲などに多彩な才能を発揮したこの巨匠は、やがてナチス政権下で帝国音楽院の総裁という音楽家としての最高位に遇され、翼賛的な音楽活動にかかわったことから戦後、無罪とされたとはいえ戦争協力で裁かれるという運命を歩んだ。傾倒した若い日本人音楽家の山田が、その音楽ばかりでなく国家と戦争とのかかわりでも同じような歩みをたどるのは、まことに皮肉である。

 

波乱万丈といえばその通りだが、山田の音楽家として毀誉褒貶の激しさの裏には、持ち前の浪漫的性格がとりもつ移り気な女性関係ばかりでなく、明治以降にあらゆる西洋音楽の様式が流入するかたわら、日本の伝統的な情念や旋律を持て余してさ迷うパイオニアとしての自恃と不安も、おそらく影を落としていた。西洋音楽の評価の水準が確立していない社会にあって、ドイツ帰りの山田にはわがままとスキャンダルがいつもつきまとった。

帰国してのちに声楽家の永井郁子との結婚と離婚、さらに村上菊尾との再婚など、またしても目まぐるしい女性遍歴にさすがの岩崎小弥太もさじを投げて支援を打ち切り、自ら率いる東京フィルハーモニー協会は赤字で解散の憂き目をみるが、それでも今度は米国への演奏旅行を計画する。近衛秀麿らの支援で1918(大正7)年にこれを実現させる行動力と、人を動かして新境地を開いてゆく才覚には驚くべきものがある。

めげることがない。それは裡に秘めた自負が裏打ちしている。ホノルルからロサンゼルスを経てニューヨークへ入った山田は同年10月10日、カーネギーホールの第一回演奏会でニューヨーク交響楽団、ニューヨーク合唱協会合唱団を従えて自作の交響詩「暗い扉」「曼陀羅の華」など、さらに翌年1月24日の第二回演奏会では交響曲「勝鬨と平和」やワーグナーの「ニュールンベルグの名歌手」の前奏曲などを演奏して成功を収めた。かつての憧れの巨匠、リヒャルト・シュトラウスと面会を果たしたのはこの時であった。

日本初の西洋音楽の本格的な作曲家として、山田が飛躍するための技術的な修業の最初の舞台がベルリンだったとすれば、交響楽団という演奏の形態を日本に根付かせるとともに、オペラを含めた興行としての西洋音楽の確立に足場を提供したのは大陸の満州だった。それは戦時体制へ向かうなかで、日本の国民を総力戦へと導くプロパガンダとしての音楽を主導した、「もう一人の山田耕筰」への大きな転換点でもあった。

日本の西洋音楽が未熟であることは、世界を巡ってきた山田が身にしみて感じてきたことである。作曲や指揮の技術はもちろん、オーケストラやオペラを編成するにしても国内の演奏家や声楽家の人材の層はいかにも薄い。東京フィルハーモニーの頓挫を経て、「完全な楽劇を上演するには、まず絶対に必要なのは優秀な管弦楽団を養成することだと考えるようになった」という山田が1920(大正9)年、日本楽劇協会を立ち上げたのちに目を付けたのは、日本が大陸進出へ植民地化を目論む満州であった。そして、アジアへの野望を広げたあげくにいくさに敗れて全てを失う日本の運命に深くかかわった、この大陸の傀儡国家がたどる短い歴史に寄り添うように、山田の旋律は大きく旋回してゆくのである。

 

白秋との「夫婦のような関係」で詩と音楽の〈結婚〉を追い求めた雑誌「詩と音楽」は、1923(大正12)年9月の関東大震災で版元のアルス社が焼失して休刊にいたった。西洋音楽と日本的な叙情の融合を通した、二人の理想郷が震災という自然災害をきっかけに断ち切られたことは、山田という一人の音楽家にとっても、そして日本の近代の音楽の歩みにとっても大いに暗示的な出来事であった。

 

〈この大正十二年という夏の悩ましさは亦一入であった。/私は書斎から、時には露台の腕椅子から、幽かに微笑を送っていた。いや、その花の圓かな盛りを蹲んで水うつ妻もうれしいと見た。遊ぶ我が子もかはいいと見た。/朝咲きて夕べは凋む阿芙蓉の花の紅ゆえ水うたせけり/ある夕べ、かうした恵まれた、而も寂しい観想の中に、私は私ひとりの秋色を寂しんでいた。/その逸興の、その次の日の烈震であった〉

 

「詩と音楽」の最終号となる震災の翌月に刊行された「震災紀念号」で、白秋はこのように綴った。耕筰は次のように記した。

 

〈《詩と音楽》は眠る。Wotanにあらぬ自然の暴令によって、いま、白銀の楯にその胸を蔽われてねむる、もえさかる炎の子守唄に揺られて圍れて眠る〉

 

この関東大震災の知らせを、山田は満州のハルビンで聞いた。本格的なオーケストラを日本に根付かせようという思惑から、白羽の矢を立てたのは当時この地にあって「東洋一」の折り紙がつけられていた東支鉄道交響楽団である。この楽団を招聘しようと、東京市長の後藤新平や政治家に働きかけて、九月の初めには契約にこぎつけたばかりであった。

ハルビンはもともと国際色の強い都市であったが、1917年にロシア革命が起こると祖国を捨てて亡命したロシア人や流浪するユダヤ系の演奏家たちが集まってきていた。東支鉄道交響楽団はそうした人材の受け皿として、優れた演奏活動を繰り広げていたのである。

震災はこの計画を頓挫させたが、1925(大正14)年4月にはこうしたハルビン在留のロシア系演奏家と日本の演奏家を合同した交響楽団による「日露交歓管弦楽演奏会」が、東京の歌舞伎座を舞台に四夜にわたって華やかに開かれる。

コンサートマスターにニコライ・シフェルブラッド、次席にヨーゼフ・ケーニヒといった、華々しいキャリアの演奏家を前にして山田と近衛秀麿が指揮台に立った。ベートーヴェンの交響曲第五番、チャイコフスキーの交響曲第六番「悲愴」、ワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」序曲などの演目に混じって、山田耕筰の「明治頌歌」と「御大典奉祝前奏曲」が演奏された。これは、日本人が日本人の指揮者のもとで初めて直接本場の西洋音楽の演奏に出会った、画期的な音楽史の一コマであった。

 

日本における西洋音楽の進化にあたって人材と演奏の場のハブ(中心)となった満州との絆がその後も深くつながれて、昭和期の山田が戦争協力へ向けた〈音楽報国〉の坂道を駆け上がってゆくのは歴史がとりもつ必然であったのだろうか。

辛亥革命で北京の故宮から放逐されて流転を重ねていた清朝のラストエンペラー、溥儀が建国された日本の傀儡国家「満州」の執政として迎えられ、首都の新京(長春)に入ったのは1932(昭和7)年の3月8日である。

折から国際連盟からリットン調査団が満州入りした時期で、この時山田は日本の植民地として発足した満州の新たな国歌を求められて作曲している。

 

〈天地のうちに新満州がある。新満州はこれすなわち新天地。天を頂き地を立てて苦なく憂いがない。わが国家を造成するや、親愛のみがあって、少しも憂いや仇が無い。人民は三千万、人民は三千万、十倍に増加するとも、なお自由を得る。仁義を重んじ、礼譲をとうとび、我をして身を修めさせる。家すでにととのい、国すでに治まる。この他に何を求めようか。これを近くしては、すなわち世界と同化し、これを強くしては、すなわち天地と同流する〉(武藤富雄『私と満州国』から)

 

歌詞は溥儀の重臣で初代国務総理を務めた鄭孝胥が担当し、山田の作曲で「大満州国歌」と名付けられた曲は、しかしついに人々の前で歌われることのない「幻の国歌」となってお蔵入りする。洋楽の旋律を生かした山田の曲想の難解さも理由の一つだったが、日本側から見ると儒教的で日本との親和が窺えない鄭孝胥による詞の不評が背景にあったといわれる。結局、満州国国歌はその後二度にわたり作り直しが行われるが、戦時体制へ向かう日本がアジア各地に戦線を拡大するなかで、国民感情を戦争へ向けて鼓舞する方向へ山田の音楽活動が転位してゆく一つのきっかけがこの「幻の満州国国歌」であった。

作曲や演奏活動ばかりでなく、のちに戦時期の音楽を国家的な統制のもとで指揮にあたる日本音楽文化協会などの運営、満州事変の翌年の1932(昭和7)年に溝口健二が監督したプロパガンダ映画「満蒙建国期の黎明」の音楽担当など、それ以降の山田は広範な戦争翼賛の活動で指導的立場にのぼってゆく。

日本がドイツ、イタリアと結んだ枢軸体制のもとで、1937(昭和12)年に制作されたドイツのアーノルド・ファンク、伊丹万作の共同監督による日独合作映画「新しき土」の音楽も担当した。筋書きは欧州留学で西洋に感化されて故郷の婚約者を捨てようとした主人公の日本人青年が、帰国してから火山に身投げをしようとする婚約者の後を追うなかで祖国に目覚め、縁りを戻してともに新天地の満州を目指すという、国策映画である。

ところがこの映画はファンクと伊丹という二人の監督で脚本と演出に対立が生じ、結局二つのヴァージョンが国内と満州などで別々に公開されることになる。日本列島の各地の風景をふんだんに織り込んで異国情緒を際立たせたファンク版では、ナチス流の国策宣伝の影で山田の西欧的な音楽は後退して不本意な扱いになった。一方の伊丹版では「個人は国家や民族や血で結ばれた鎖のなかの一部である」といった思想教化を謳いながら、ロマンティックな山田の音楽に重ねて最後は満蒙開拓へ向かう主人公たちの回生が描かれる。

 

〈なんと明るい 天地だ今日だ/響けトラクター 雲までも 吹けよ緑の東風/風よみてくれわしらが土を/若い日本だおまえよわしよ/どこに住もうと日は高い〉

 

「新しき土」のラストシーンは、満州の大地をトラクターで耕すらす若い二人の場面に主題歌の「青い空見りゃ」の歌声がかぶさりながら終わっている。作詞はあの「詩と音楽」で結ばれた盟友、北原白秋である。

 

山田耕筰はこの翌年の1938(昭和13)年に陸軍省報道部嘱託になり、中国で漢口攻略戦に従軍する一方、「昭和讃頌」を作曲した。1940(同15)年には交響詩「神風」を発表し、その翌年には演奏家協会の「音楽挺身隊」を結成して自ら隊長に就いている。

「音楽挺身隊」の隊長となった山田は高級将校の軍服に長靴、サーベルという姿で演奏団を率いて各地を巡回し、地域の空き地や集会所で軍歌や戦時歌謡を演奏するなどして戦時の人々を慰安するとともに、臨戦体制への一体的な結束と覚悟を人々に鼓舞した。

 

〈一體戦争はドラマチックなものであるが、ドラマの中には何とも云へないデリケートな叙情面がある。それが戦争にもあるのではなからうか。実際に於て死物狂ひになり鐡砲を打ちまくつてゐるが、やがていつかはなしに打ちやめる。淋しくなつて居ても立つても居られないやうな空寂しさに襲はれる。ふと見ると傍らに戦友が倒れてゐる。そしてその傍に秋の尾花が咲いてゐる。ここでコンヴェンショナルに云へば花を折つて戦友の胸に載せてやりたいといふ気持になる。ロマンティックな作家だつたらかういふ抒情面を歌ふだらう〉(「戦争交響楽―従軍を前にして」1939年2月『婦女世界』)

 

山田の戦争観には精神的なネオテニー(幼形成熟)のような現実感覚の欠落と、浪漫的な没入への陶酔がある。それが総力戦へ向かって自らの「戦線」を広げる54歳の山田の「音楽報国」の起点であった。音楽がそこで果たす役割については、こんな発言もある。

 

〈内閣情報局推薦の「愛国行進曲」を一人の男が歩きながら歌ってゆく、すると向うから女中さんなり、八百屋の若い者なりが唱って来る。勿論彼等はお互に面識はない、然しニヤツと笑いながら顔を見合わせて通り過ぎる、何んてうれしい情景ぢやあないか。/彼等は同じ歌を口ずさむことによって以心伝心でお互の気持がわかるのだ。/これと同じことで日本人と支那人が一つの歌を唱和する場合其処に自ずと感情の融和が生れるのではないかと思ふ。この空気は到底理屈や討論によって得られるものではない〉(「時局を語る」1938年4月『中央産業組合新聞』)

 

カンタータ「皇軍頌歌」(1942年)、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」(1944年)など、戦争翼賛へ向けた国家の指導的立場から国民を「聖戦」へ導く山田の音楽活動は、終戦まで一貫して続き、この間に百曲を超える夥しい数の戦争翼賛の歌謡や軍歌を作った。そのパートナーとして作詞にあたったのが、「詩と音楽」で「夫婦のような関係」とまで呼ぶ友情を結び、映画「新しき土」で主題歌を作詞した北原白秋であった。

作詞活動を通したこの時期の白秋の戦争協力も、夥しい作品となって残されている。

白秋は戦時体制に向かって「国民歌謡」という構想を掲げて、校歌や社歌などの社会的な歌曲から広く国民に親しまれる戦時歌謡にいたるまで、山田と歩調を合わせて「聖戦」の完遂へ向けた作詞を重ねた。そこにはかつての「邪宗門秘曲」の絢爛とした頽唐と浪漫の美学はもちろん、「待ちぼうけ」や「ペチカ」などの童謡で山田とともに探った初々しい抒情の世界は影をひそめて、一世を風靡した耽美詩人の面影はすでにない。

満州事変の日本の行動を批判したリットン調査団の報告を不服として、日本が国際連盟を脱退した時の《脱退ぶし》では「何が聯盟、さよならあばよ」とうたい、《皇軍行進曲》では「皇軍の進むところ、敵無し、今や満蒙の野はよみがへる」とうたった。

このようにして白秋は、戦時の翼賛音楽を通して再び山田と「夫婦のような関係」の再現を夢に見たのだろうか。

 

「皇紀2600年」を記念して国民的なキャンペーンが国を挙げて繰り広げられた1940年、つまり昭和15年という年は、日米開戦を翌年に控えた列島が一種のユーフォリア(陶酔的な熱狂)に包まれた不思議な年であった。

16歳だった團伊玖磨は山田耕筰のお墨付きで、東京音楽学校を目指して下総脘一から和声学を学んでいた。友人と自転車に乗って勝鬨橋の開通を見に行ったのは、この橋が皇紀2600年を記念した日本万国博の会場に予定されていた晴海地区への入り口として建設されたからでもある。その年の秋、團は東京宝塚劇場で行われた「皇紀2600年」の奉祝楽曲演奏会で山田の畢生のオペラ作品「夜明け」を観た。

黒船で下田に来たハリスとお吉の悲恋を文化の衝突として描いたパーシー・ノエルという米国人作家の作品は、しかし若い團を満足させなかった。山田の台詞の細部へのこだわりが音楽と齟齬してオペラとしての骨格を損ねているように思えたのだが、今思い返せば時局の中で音楽家としての恩師が置かれた立場を映したものでもあったのだろう。

この年を祝って日本が世界各国の代表的な作曲家に依頼した祝典曲を披露する奉祝演奏会も、忘れがたい記憶としてある。師走の12月7日、勝鬨橋からほど近い歌舞伎座が会場だった。イタリアからイルデブラント・ピツェッテイの「交響曲イ調」、フランスからジャック・イベールの「祝典序曲」、ハンガリーからシャーンドル・ヴェレッシュの「祝典天交響曲」、そしてドイツからは山田の若い日の憧れの人、リヒアルト・シュトラウスの「祝典音楽」が寄せられ、臨時に編成された158人の管弦楽団が、山田を含めた内外の指揮者の下でこれを演奏した。オーケストラの後方の雛壇に東京の寺院から集めた10数個の鐘が置かれて、重々しい響きを奏でた。少年の團の目には指揮台に立った山田の晴れがましい燕尾服とともに、会場で駐日ドイツ大使のオットーに付き添われた首相の近衛文麿のどこか所在のなさそうな姿が焼き付いている。

二か月前、日独伊三国同盟が結ばれたばかりで、この演奏会では米国は外交関係の悪化から作品の依頼に応じず、イギリスのブリテンから寄せられた曲も意趣返しのような鎮魂歌だったために、祝典に相応しくないという理由から演目から除外された。

その年は隣組制度が発足して近隣の間での相互監視と言論の統制が強まる一方、劇場や映画館の早朝興業の停止やダンスホールなどの閉鎖で、市民の生活は耐乏と節約へむけた戦時体制がひときわ強まっていたが、一方で「紀元2600年奉祝」の祝祭行事が年間を通じて大都市を中心にさまざまな分野で相次ぎ、軍需景気も相まって盛り場や行楽地への人出は大幅に増加していた。開戦前夜の奇妙な熱気と陶酔が人々を包んでいたのである。

 

〈金鵄輝く日本の/栄えある光 身にうけて/今こそ祝え この朝/紀元は二千六百年/ああ一億の 胸は鳴る〉

 

巷にはこのような「紀元2600年奉祝歌」の軽躁な旋律が流れていた。

11月10日には皇居前広場で外交団や各界代表ら五万人が出席して政府主催の記念式典と祝宴が開かれた。近衛首相が壽語を読みあげ、若い昭和天皇が勅語を発したあと、頌歌が演奏されて「天皇陛下万歳」が三唱された。神輿や楽隊のパレードや日の丸を手にした祝賀パレードが終日各地で繰り広げられ、国民の高揚は極まった。

 

65歳の團伊玖磨はオフィスのフロアから窓外の風景を見ている。

半世紀の歳月を経て、眼下にのぞむ勝鬨橋は相変わらず芒種の雨に濡れている。晴海通りを行き交う車の流れは途切れることがない。この橋げたが跳ね上がって船を迎える風景は、もう見ることができない。

團はあの年開かれたもう一つの奉祝演奏会の光景を思い起こしていた。

11月26日、日比谷公会堂を会場に東京音楽学校の生徒が総出で演奏した信時潔作曲の交声曲(カンタータ)『海道東征』の公演である。「海ゆかば」で知られるこの作曲家が神武天皇の東征を主題にして日本の建国神話を描いたもので、『古事記』などに由来を求めた、独唱と混成合唱による擬古的な旋律の歌詞を受け持ったのは北原白秋であった。

山田耕筰が軽妙で分かりやすい曲想で次々と時局に合わせた戦意高揚の旋律を書き続けたのに対して、信時潔は深くこの国の建国の歴史の詩情に遡りながら、荘重で美しい鎮魂の調べをこの時局に公にしたのである。このころ最晩年にあった白秋はすでにほとんど失明の状態で、この奇妙な祝祭がうち続いた年の翌年に逝った。

 

〈海ゆかば水漬くかばね 山ゆかば草むすかばね 大君の辺にこそ死なめ かへりみませじ〉

 

大伴家持の歌に託した信時潔の絶唱「海ゆかば」はいくさの折々にうたわれ、とりわけ太平洋上で日本軍の玉砕が相次ぐ戦争末期には、その鎮魂と祈りの調べが銃後の人々の心を揺り動かした。

 

〈信時先生は、明治・大正・昭和を孤高に生きられたが、あまたの依頼があったに拘わらず、軍歌を一つも書かれなかった。山田先生がその方向に稍々協力された事を思うと、信時先生の孤高さは立派である〉

 

團は戦後になって1940年の二人の巨匠の去就を振り返りながらこう記している。

戦時下にしばしば国民を慰撫する役割を果たした信時の「海ゆかば」は戦後社会で禁忌に等しい旋律となったが、戦後に「戦争協力」を問われた山田耕筰はいまも近代日本の童謡や歌曲の父として名前を深く刻んでいる。

二人の師の音楽の足跡は遠ざかりながら突然に蘇り、歴史の影法師のように気まぐれな振る舞いを後の世に残して、また遠ざかる。

                                 =この項終わり

(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

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