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“1月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1848年  カリフォルニアで金鉱が発見されアメリカのゴールド・ラッシュのきっかけになった。

スイス系の移民のジョン・サッターはカリフォルニアのサクラメントに「サッター砦」を築いて農園を開いた。やってきた当時はメキシコ領だったがヨーロッパから多くの移民が住み始めていた。前年の米墨戦争でアメリカ合衆国が領土として獲得していたものの原住民のネイティブ・アメリカンの抵抗は激しく、移民たちは身を守るために武装拠点として砦を各地に作りその中で農園を開拓していった。

この日の朝、使用人で大工のジェームズ・マーシャルが駆け込んできた。震える手でポケットから金色の砂を取り出すと「水車小屋の修理をしていたら小川の底に<光る砂>を見つけただ」という。サッターは目を見張った。それはまさしく砂金だった。マーシャルには厳重に口止めをして早速調査にかかると付近から結構な量の砂金が見つかった。

ところがこのたくらみは間もなく漏れてしまう。巡回商人のひとりが他の使用人から砂金を手に入れ、サンフランシスコで「金発見」を広めてしまったからである。そこからアメリカ開拓史の1ページを飾るあのゴールド・ラッシュが到来する。一攫千金をもくろむ人々がアメリカだけでなくヨーロッパなどからも<にわか移民>として押し寄せ、サッターの農園は荒らされて穴だらけになってしまった。

サッターは長い裁判の末、最終的には連邦政府から権利を回復してもらい毎月250ドルの年金を勝ち取るが、決定寸前に息を引き取った。もし発見の成果を享受できていたら彼は<世界で最も裕福な人物>と言われただろうがそれはゴールド・ラッシュに踊らされた人々の夢と同じく幻に終わった。

*1960=昭和35年  大相撲初場所の千秋楽、横綱・栃錦は最後となる10回目の優勝を決めた。

栃錦の対戦相手は同じ横綱・朝汐だった。「栃若時代」といわれて久しかったがこの場所は若乃花の休場で対戦はなかった。ところがこの年から毎年初場所の優勝力士にはエール・フランス航空がフランスへ招待することになっていたから観客の注目がそれにも集まり大きな声援を送った。

結果は栃錦が巨体の朝汐を一気に寄り切りって文句ない優勝を決めた。栃錦は「このマゲを見たらフランス人は日本のサムライが来たと驚くだろうね」と大喜びで、親方の武蔵川とともに渡欧した。

*1972=昭和47年  グアム島のジャングルに28年間潜伏していた横井庄一軍曹が発見された。

この日、エビやウナギを捕るための「うけ」を仕掛けに行ったところを現地の猟師たちに見つかり保護された。2月2日に羽田空港に到着したときの第一声は「恥ずかしながら帰って来ました」でこの年の流行語にもなった。

NHKの報道特別番組『横井庄一さん帰る』は40%以上の視聴率で「艱難辛苦しながらも横井庄一、生きながらえておりました」とか「天皇陛下様からいただいた少銃をお返しいたします」などの発言から<生きていた英霊>と呼ばれた。その後、結婚も果たすなどタイムスリップした現代に意外に早く適応して「耐乏生活評論家」として全国を講演して回った。

本人は1997=平成9年に82歳で亡くなったが生前、名古屋市中川区の自宅に「横井庄一記念館」を開いた。私設の記念館として現在も奥さんが守っているが「平和の灯はどんなに小さくても生きている限り伝えたい。人と人が殺し合う戦争は二度と起こらないようにというのが主人の思いでしたから私もそれをただひたすら祈っております」と。

*1871=明治4年  東京・大阪・京都の3都市間で郵便集配サービスが始まった。

翌年の全国展開を控えての試験実施だったが「書状差出人心得書」には、切手は書状の裏に貼り付けることなど今とは正反対の注意も書かれている。初めて利用した人のなかには切手の代わりに封筒に紙幣を巻き付けて投函したケースや、ポストにあたる「郵便函」を<小便函>と勘違いして放尿して捕まるなどなど多くの珍談があった。

初代・駅逓頭になる前島密が模範としたのはイギリスの郵便制度で前島は郵便や切手、葉書などの名称を定め「郵便制度の父」と呼ばれ「1円切手」のモデルとなった。郵便事業は江戸時代の飛脚や駕籠に代わるものだったから全国の飛脚屋などの運送業者にとっては死活問題だった。政府に対して反対運動が起こり、なかには妨害するなどの騒ぎもあったが結局、敗退し国の独占事業になっていく。当時、東京と大阪間は丸3日を要した。

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