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“12月14日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1904=明治37年  わが国初のデパート三越呉服店が東京都下の各新聞に開店広告を出した。

三井呉服店専務の日比翁助がそれまでの営業スタイルを一新し、欧米のデパートメント・ストアとしての出発を大々的に宣伝するものだった。開店日は12月20日、マークも現在の<丸に越>に一新して華々しくオープンするとした。白木屋、松屋、松坂屋等の大呉服店も次々にデパート方式に改められて人々の購買欲を刺激した。品数が豊富で一つの店内で何でも手に入れることができるのが魅力だった。

三越は新聞や駅頭広告に力を入れた。大きな白紙の中央に「三越呉服店、明日の広告場所」とだけ活字がある広告予告を出した。翌日の紙面にはその場所に大きな広告が載った。

三越呉服店日本橋駿河町の新設備
[ 食 堂 ] 御食事 五十銭 御すし 十五銭 日本菓子 五銭 西洋菓子 十銭 コーヒー 五銭 紅茶 五銭
[寫眞場] 新設寫眞場に於いて技師長柴田常吉担任、最も斬新なる各種写真を撮影
[実物幻燈] 毎土曜日(雨天ならば翌日曜日)
        午後六時より八時半迄駿河町通三井銀行前当店門上に於て
        最新舶来実物幻燈を催し猶最近の活動写真をも御覧に供し候。
        縦覧御随意なれば御散歩旁(かたがた)御来観を乞ふ。

「実物幻燈」は雨天なら翌日とあるから屋外イベントだったようだ。いまなら見物人が殺到してたいへんな騒ぎになった東京駅の「プロジェクションマッピング」みたいなものか。「観覧無料ですからお散歩かたがた」なんてちょっとニクイ。

*1171=承安元年  平清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内した。

自分の娘を身分違いは承知の上で天皇に嫁がせようとしたのだからこの頃が清盛の絶頂期だった。『愚管抄』には「帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント」という望みを抱いたとある。しかし徳子は平氏の一員に過ぎなかったから皇后になれる家柄ではなかったため形式上は後白河法皇の養女として入内することになった。

従三位に叙せられた徳子は冬晴れのこの日、法住寺殿で高倉天皇の生母である建春門院の手によって「着裳の儀」を行ってから牛車を連ねて大内裏へ向かった。2日後、徳子は無事、女御になり翌年2月には中宮になった。清盛は狙い通り天皇の外戚となったわけだ。高倉天皇との間に出来たのが安徳天皇でのちに壇ノ浦の戦いで乳母と入水することになる。

*1702=元禄15年  『忠臣蔵』でおなじみの赤穂浪士による吉良邸討ち入りが行われた。

映画やテレビドラマだけでなく歌舞伎などでも「討ち入りは雪を踏んで」となっている。そのほうがよりドラマチックだからということはあるが旧暦ではこの日だが新暦に直すと1月30日。雪はともかく江戸時代には4回あったとされる<小氷河期説>を引用するまでもなく厳寒の季節ではあった。

吉良邸は前年、呉服橋から本所(現・墨田区両国3丁目)へ移転していた。赤穂藩主が江戸城松の廊下で斬りつけた吉良上野介義央は直前の12月12日に外孫で養子の義周(よしひろ)に家督を譲り隠居した。この日は吉良邸で茶会が開かれるという情報を浪士の大高源五が入手していた。隠居になったことで油断があったのか「この日は必ず邸にいるはず」という確実な情報があったから討ち入りが決行された。

ここで『忠臣蔵』のストーリーを紹介するのは省略するがそれにしても吉良側は無防備すぎる。しかも江戸の警備には細心の注意を払っていたはずの幕府も浪士などの<不穏な動き>は一切つかめなかったのか。さまざまな『忠臣蔵』には討ち入りを隠し通した苦労があれこれ描かれているがあえて言うと一切の介入や妨害がなかったのは幕府自体が討ち入りを<容認していた>としか思えないところがある。

討ち入り前に大石内蔵助の指示で浪士は吉良邸隣の旗本・土屋主税邸へわざわざ挨拶に行っている。それに対し家人はただ「心得ました」と答え、それを聞いた主人の土屋は塀越しに吉良邸から逃げ出す家臣がいたら「討ち止めるべし」と家来を待機させている。こちらも討ち入りへの<消極的な応援態勢>である。

『忠臣蔵』と実際の<差異>は何冊もの本になっているが私自身は
山鹿流陣太鼓→創作=実際に用意したのは笛と鐘か
衣裳統一→創作=目立ち過ぎるから「火消し装束」あたりでは

とみる。なぜかというと「主君の仇を確実に仕留める」ことが最大唯一の目的だったからだ。こうしてあれこれ書いているとどうしても『忠臣蔵』のさまざまなシーンが脳裏に浮かぶ。後世の脚色ではあろうがやはり雪は降っていて欲しい気がする。

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