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“8月30日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1900=明治33年  小倉に単身赴任していた森鷗外のことを心配する大先輩が手紙を寄せた。

鷗外は前年6月から陸軍第12師団の軍医部長として単身赴任していた。とはいっても妻と離婚していたから<独身>だったが大先輩の石黒忠悳(ただのり)から心配する手紙が届いた。石黒は陸軍の軍医総監までつとめた人物で引き立ててくれた恩人のひとりだったがそのやりとりを日記に書いた。

赤間関に往くことの頻ならんことを恐ると。答えて曰く、赤間関の如きは、縦(たと)い公事ありて赴くも、旦(あさ=朝)に往き夕に還ると。

手紙で鷗外が関門海峡をはさんで対岸にある赤間関(=下関)に月に2回ほど公用=定期巡見で出かけていると報告したのに対し、石黒は赤間関には有名な稲荷町遊郭があるから「頻ならんことを恐る」と心配している。はっきりと「遊郭もあることだし」とは書かれていないが<ははあ>と思った鷗外は「朝出かけて夕方には帰ります」と返事を出した。

石黒には鷗外がドイツへ留学した際に付きあっていた恋人が帰国した鷗外のあとを追いかけて来日してひと悶着があったことが耳に入っていたはず。こんどは後輩軍医に良からぬ噂でも立っては軍医全体の品位を落とすという監督責任のような心情だったか。鷗外自身も家に置く手伝いの女性は必ず2人にするなど女性関係については配慮以上に気をつけていた。それでも周囲は独身でいる鷗外を心配したようで母親の勧めでやむなくお見合をする。相手は18歳年下で大審院判事・荒木博臣の長女・志げ。再婚だったが魅かれるところがあったようで翌年1月に式をあげ、第3師団軍医部長の発令を受けた3月に新婦を伴って東京に戻った。

小倉への転勤は一部には左遷ともいわれたが、赤間関の旧長州藩の砲台を見学するなど各地の歴史文物や文化、史跡などを訪ねた。後年取り組んだ史伝につながる墓巡り(=掃苔・探墓趣味)は小倉時代に始まった。当時、小倉と赤間関とは関門海峡を船での往来だった。公務の性格上、同行の部下などもいてスケジュールも「夕に還る」ように組まれただろう。

鷗外にとってはよそではなかなか味わえない<船に乗っての小旅行>の気分で、精神の開放はオーバーにしても気分転換にはもってこいだったはず。歴史好きな鷗外のこと海峡の眺めの向こうにここで繰り広げられた幾多の歴史パノラマを思い浮かべたとするなら夜間より眺めのある「夕に還る」ほうがよかったのではあるまいか。

*1945=昭和20年  厚木海軍飛行場に連合国最高司令官マッカーサー元帥が到着した。

午後2時すぎ、専用の愛機C24「バターン号」のタラップからカーキ色の長袖シャツとズボン姿、サングラスをかけ右手には愛用のコーンパイプの元帥が降りてきた。出迎えた先遣隊のアイケルバーガー中将に「ハロー、ボッブ」と声をかけると並んだ先遣隊のメンバーらに挙手であいさつした。このときの服装は夏用の「略式軍装」で夏軍服は洗濯を重ねて色あせ、帽子も日頃かぶっていたものだった。

記者団に配られた元帥のあいさつは「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道、しかしこれで万事終わったようだ」から始まる。起点がメルボルンなのは戦争初期のフィリピン戦線で日本軍の怒涛の進撃に「I shall return=必ずや私は戻ってくるだろう」の言葉を残し魚雷艇でコレヒドール島からミンダナオ島へ脱出した。パイナップル畑につくられた秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアまで撤退した。そこから反攻してきたマッカーサー自身の「長い道のり」をさす。

厚木からは車を連ねて横浜へ向かった。宿舎は進駐軍の受け入れを引き受けた帝国ホテルの犬丸一郎らが横浜中を探し回ってようやくスタンダード石油の元支配人宅を確保した。もっとも気に入らないかもしれないからと「ホテルニューグランド」の部屋も確保した。

マッカーサーはいったんホテルに入り、夜8時頃にやって来た。そこで犬丸らが手配した食材を使ってコックらが用意した夕食を楽しんだ。大邸宅というほどではなかったが住んでいたのがアメリカ人で使い勝手がよくマッカーサーも気に入ったという。ただし占領国側のトップだったからこの宿舎はあくまで秘密にされ「横浜ではホテルニューグランドの315号室に12泊した」とされた。

ホテルでのエピソードに「目玉焼き事件」というのがある。ある日の朝食でマッカーサーは「2つ目玉のたまご焼き」を頼んだ。ところがいつまでたっても出てこない。ようやく昼過ぎに「1つ目玉」のが運ばれてきた。マッカーサーが料理人を呼んで問いただすと「将軍から命令をいただいたので八方手を尽くしてようやく卵がひとつだけ手に入りました」と答えた。

それを聞いてマッカーサーは瞬時に敗戦国日本の食糧事情を理解したというものだ。しかし犬丸の回想にそれはないし最後まで物量豊富だった連合軍側が準備を重ねたうえでやってきたのだからいささか<できすぎた話>のように思える。

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