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“7月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1576=天正4年  イエズス会の京都の拠点となる「南蛮寺」が竣工した。

宣教師ルイス・フロイスの手紙には「都の教会堂が老朽したため畿内の有力信者の寄進やイエズス会からの出資で約3,000クルザードが集まり、キリシタンの女性からは畳百枚が贈られた。こちらの職人の技術水準は高く、建設の指揮をとったイタリア人オルガンティーノ師が建築上の工夫を重ねた」などと書かれている。

「都の南蛮寺」と呼ばれ、国内に建てられた教会堂では最大の規模だったものの豊臣秀吉による禁教令で取り壊された。唯一残された狩野派の絵師、狩野宗秀が描いた「都の南蛮寺図」(神戸市立博物館蔵)の扇面画で木造瓦葺3階建ての和洋折衷の楼閣風の建物であったことが知られていた。場所は四条坊門姥柳町(中京区)にあったとされたが1973=昭和48年に同志社大学の森浩一教授の発掘調査ではじめて正確な位置が判明した。出土品としてクルス=十字架がついた軒瓦や喫煙具の「南蛮ギセル」などが見つかった。

どんな規模だったのか。畳百枚の寄進があったから礼拝堂などに敷かれ、宣教師らは座り込んだ信者に説教をしたことは間違いない。郷に入れば、とはいうが彼らにとっては慣れない宣教風景だったろう。

*1912=明治45年  明治天皇の「御不例」を受けて皇居に近い区間の電車は徐行運転を始めた。

対象となったのは日比谷―半蔵門外間の堀端線の電車などで皇居内に車輌の響きが届いて天皇の病気に支障が出てはと前日から徐行運転していた。この日午後からは線路が交差する三宅坂交差点では軌道やポイントにぼろを敷いて音響を消す工夫を始めた。さらに係員が大勢出動して手旗を振るなど汗だくで誘導した。

非常の場合といえども警笛や鐘はいっさい厳禁というのが徹底され文字通り<しずしず>と運転された。

*1901=明治34年  海水浴シーズンを前に大森・八幡浜海水浴場で<男女混浴>が禁止された。

東京朝日新聞の記事は「男女混浴禁止 大森の海水浴」の見出しで「この八幡浜は沖行く舟の真帆片帆又は<海苔そだ>の下に櫂をあやつる海士の営みが紅塵万丈の都人士の目を楽しませるので、夏分は非常に繁盛し伊勢源、松浅、八幡楼、魚栄、汐見など数多くの料理屋が軒を並べ、海のほうから見る時はまるで蜃気楼の観がある」と、眺めがいいのは海のほうからくらいなのに<紅塵万丈の都人士>つまり塵に汚れた都会人の皆さんはこんなところによくもまあ来ますねえとのっけからこき下ろす。

さらに従来は海水浴客のために沖合に深浅を知らせる紅白の旗列があっただけなのに、今年からは海中に紅白の幕が張りめぐらされた。男女の<混浴>を防ぐために幕で囲まれたのが女性の遊泳場所であるとようやく本題の紹介に。

「男女の混浴なる事は他の海水浴と同様であるが、然るに今年は其筋の取締り厳しく右の次第(沖合の紅白の旗列だけ)では大いに風俗をみだすから婦人遊泳の場所へは幕を張り男子と区別すべしとの事である。何れ此取締は他府県の海水浴にも及ぼすに相違あるまい」とまるで<それでもまだ来ますか>と言わんばかり。

いまなら「何をケチつけるのよ」と観光協会が黙っちゃいないだろうと思ってしまう書きようだ。その後、他府県の海水浴場でも<男女混浴禁止>が進んだのだろうか、ちょっと気になるところではある。

*1940=昭和15年  「丑の日」を前に関西の鰻屋はとんでもない大打撃を受けた。

昨今のように鰻が大幅に値上がりしたからではなく「丑の日」にあたるこの日の前日から近畿2府4県がこぞって「節米体制」をとったからである。鰻屋だけでなく百貨店の食堂や官庁、会社の食堂からも米飯類がいっさい締め出されてしまった。町の食堂も米飯類の提供には時間制限が行われた。

大阪でいうところの「まむし=うなぎ飯」にご飯がないことにはどうしようもない。さらに拍子の悪いことに前年は鰻が入荷不足だったので、この年はどこの鰻屋も何千貫という鰻を大量に仕入れて生簀にストックしていたからこの「米飯禁止令」は大いにこたえた。あちこちで「さっぱりわやですわ」の嘆き節が響いた。

高島屋が「鰻そば」、阪急竹葉亭が「鰻うどん」など窮余のメニューを考案したが客からは「なんや気色わるうー」で注文もさっぱり。

この騒ぎを知ってか知らずか、生簀の鰻だけは<命長らえた夏>となったわけだ。

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