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“9月27日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1825年  ジョージ・スチーブンソンが蒸気機関車「ロコモーション号」を初めて走らせた。

イギリス生まれのスチーブンソンは炭鉱技師をしていたが初の鉄道会社としてストックトンからダーリントンまでの40キロの区間に鉄道が敷設されるのに伴い請われて技師長に就任した。石炭搬出用の巻き上げ装置など蒸気機関の応用と改良に当たり、1814年に30トンの貨物のけん引能力のある石炭運搬用の機関車「ブリュヘル号」を製作した実績が認められた。スチーブンソンがルート設計から軌道敷設、機関車や貨車の製作まで陣頭指揮した。

「ロコモーション号」は貨車12両、貴賓用客車1両、全重量90トンを引っ張って時速10キロで走ったとされる。開通当初、蒸気機関車はあくまで貨物用で乗客は鉄道馬車でという二方式で運行された。馬は馭者の指示通りに動き、かつ停まるが蒸気機関車は不安という心理があったからだ。5年後の1830年に開通したリバプール―マンチェスター間の鉄道で初めてオール蒸気機関車方式となり初めて本格的な運行ダイヤや信号保安技術が導入された。スチーブンソンは機関車そのものだけでなく線路や乗客心理まで多くの難題を克服したことで「鉄道の父」と呼ばれ産業革命を大きく<けん引>した。

息子のロバート・スチーブンソンは父とともに1829年に作った煙突式ボイラー蒸気機関車「ロケット号」が最高時速40キロで40トンの貨物をけん引したことで注目された。世界初の鉄道工場を建設、橋梁設計分野などでも活躍した。海外でも1853年に当時イギリスの植民地だったエジプトのカイロ―アレクサンドリア間に鉄道を敷設した。わが国の文久遣欧使節で福沢諭吉ら一行が1863=文久2年3月に初体験して驚いたのはこの鉄道でアレクサンドリアからカイロまで乗車した。

その後、半世紀もしないうちにヨーロッパやアメリカ、オーストラリア、いやわが国でも鉄道が開通したことを考えると19世紀はまさに「鉄道の世紀」だったといえる。

*1940=昭和15年  日独伊三国同盟の調印式がベルリンのヒトラー総統官邸で行われた。

満洲事変以降、日本は多額な戦費を投入する一方で国際的に孤立していった。一方で中国を支援する米英との関係が悪化するなかで日本はヨーロッパで優勢となったドイツとの同盟に踏み切った。海軍と外務省は頑強に反対していたが9月に第二次世界大戦が勃発してドイツが緒戦でめざましい戦果をあげると「バスに乗り遅れるな」と世論が動いた。それを急がせる陸軍の圧力もあったとされる。同盟の締結により日独伊枢軸が成立し、日本は<世界再分割>をかけた戦争に一層深入りすることになった。

巷で流行った「仲良し三国」などという浮かれたものではなく恐るべきファシズムへの道が一本につながったのである。推進派の狙いはドイツ、イタリアとの提携強化で日本の東南アジア進出を保障させ、中国関係では米英をけん制する狙いがあったが日本の北部仏印進駐によりアメリカの対日姿勢を一層硬化させ太平洋戦争の開始はもはや避けられなくなっていく。

*1192=建久3年  南都焼き打ちで焼けた東大寺再建の大勧進・重源が播磨に浄土寺を開いた。

再建の拠点として伊賀(三重県)、周防(山口)など7カ所に造った東大寺の「別所」のうちの播磨別所にあたり兵庫県小野市に残る。重源は紀氏の出身、醍醐寺で修行したあと出家、法然に学んだ。四国、熊野などで修業し、異論はあるが中国=南宋を3度訪れた。高野山の僧らを引き連れて東大寺の作善=焼け跡片づけをするうち大勧進の宣旨を受けた。すでに61歳だった。同じ時に焼けた興福寺は藤原氏の氏寺だったから再建が進んでいたが東大寺のほうはまったく手付かずだった。相次ぐ争乱、天候不順、飢饉、疫病の蔓延・・・権力の限りをつくした平家はまさに滅びようとし、本来なら、というか世が世なら国家がすべき大事業なのに資金も与えられず宣旨という一枚の書状が出されただけだった。

重源は優れたアイデアマンだった。ひとつだけ紹介すると1カ月をかけて「一不思議の勧進車」を製作した。木工、鋳工、絵師、仏師、写経師らを集めると勧進用の精緻な一輪車6両を作り上げた。車には盧遮那仏と両脇侍、四天王像を描いた画幅を添えたすばらしいものに仕上がった。宣旨を書き写した幟(のぼり)は特上の絹、寄進を記録する勧進帳にはわざわざ吉野の強紙(ごうし)を漉かせた。これで都=京都に上り六街道口で勧進を行った。いまなら募金キャンペーンですな、これが後白河法皇や貴族、女院御所などの耳に入りわれもわれもと加わったから一日で金6両、数千貫文が集まってさらに話題を呼んだ。

諸国行脚では各豪族にも足を運び鎌倉幕府では頼朝に直接、寄進を申し入れている。陸奥の砂金勧進では幼友達の西行も平泉まで出かけた。用材の大木を手に入れるため周防の山奥まで出かけた。あらゆる資材、工人、資金を集め、1185=文治元年に大仏の開眼供養、10年後に大仏殿が再建された。重源は高僧というより大実業家だった。最後に与えられたのは「大和尚」という名誉だけ。臨終間近、どこをもって遺跡にしましょうかと問う弟子に「旅の足跡の数だけ」と答えて墓も残さなかった。86歳で入滅。衣は墨染にしてまさに<足裏で実践した>生涯だった。

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