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“12月7日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1901=明治34年  日本初の対外ラグビー試合が横浜公園で行われた。

横浜生まれでケンブリッジ大学を卒業して慶応義塾の英語教師をしていたイギリス人のエドワード・B・クラークと、同じくケンブリッジ大学から留学帰りの田中銀之助が明治32年に慶応義塾の学生にラグビーを教えたのが日本でのラグビーの始まり。練習場所は麻布仙台坂の坂下にあった「仙台原」という野原で当時はラグビーのことを「蹴球」とよんでいたため現在も慶応義塾のラグビー部は唯一、体育会蹴球部である。

試合では慶応義塾チームと横浜在住外人チーム「アスレチック・クラブ」が対戦した。慶応はFBをつとめたクラーク教授以外は全員が日本人だった。試合は慶応が1トライを挙げたものの外人勢の猛攻にあって5―35で大敗した。

*959=天徳3年  平安時代前期、宮中の紫宸殿の南側階段下に「橘」が植えられた。

紫宸殿に向かって西側にあたるが天皇の御座所から見ると右側で右近衛府の官人がこの前に並んだから「右近の橘」と呼ばれた。反対側には桜が植えられ、こちらには左近衛府の官人が並んだから「左近の桜」と呼ばれた。

*1944=昭和19年  午後1時36分、昭和東南海地震が発生した。

震源は紀伊半島の熊野灘沖20キロ。マグニチュードは7.9で近年の研究では震源域は和歌山県串本町の南東沖から愛知県三河湾沖に至る広域連動型地震だったことがわかっている。安政東海地震(1854年)から90年後で、この2年後に昭和南海地震(1946年12月21日)が起きたが、このときの地盤破壊は駿河トラフには及ばなかったことからエネルギーが解放されず駿河湾に<東海地震>の発生可能性を残しているとされる。

昭和東南海地震は世界各国の地震計で記録された。翌日の米国主要紙は日本で大地震が発生したことを大きく報道した。とくに紀伊半島の沿岸部には大津波が来襲し震源地に近い三重県尾鷲市には26分後に高さ2.7~9メートルもの大津波が押し寄せて壊滅的な被害を受けた。また静岡県下田市から紀伊半島沿岸にかけては波高が最高7メートルにもなった。津波での死者が一番多かったのは三重県大紀町錦の64人であるが愛知県の港湾地帯の埋立地を中心に軍需工場が倒壊、学徒動員された多くの中学生が下敷きになった。

被害は死者・行方不明者1,223人、全壊家屋1万8千戸のうち数千戸は流出した。ところが翌日が真珠湾攻撃の3周年に当たることもあって1面は昭和天皇の肖像写真が大きく掲載され地震の記事は社会面の下段に小さく報道されるにとどまった。戦意高揚が報道の全てとされた時代、軍需工場の被害状況などの情報が漏れるのを恐れた軍部の情報統制によって「一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく、郷土防衛に挺身する必勝魂ははからずも空襲と闘う片鱗を示した」などと的外れの記事が載っただけだった。

*1867=慶応3年  わが国初の紡績工場・鹿児島紡績所が完成した。

薩摩藩主島津斉彬の命を受けた新納久修、五代友厚はイギリス・マンチェスターのプラット兄弟社に紡績機を注文して技師7人を招いた。注文した機械が長崎に到着したのがこの日で、機械の据え付けを待つだけの洋風工場は石造鉄柱平屋で磯地区に建てられた。動力は蒸気機関でまさに<薩摩の産業革命>だったといえる。
紡績工場はその後、大坂・堺や東京・滝野川に相次いでできるが幕末までに開業したのはここだけ。このとき輸入された打綿機などが鹿児島県の指定文化財として尚古集成館に展示されている。

*1954=昭和29年  造船疑獄など野党の追及に抗しきれず吉田首相が総辞職に追い込まれた。

返り咲きも含めて戦後の内閣としては「ワンマン宰相」として最も長く続いた。第1次(1946年5月―1947年5月)第2次(1948年10月―1949年2月)第3次(1949年2月―1952年10月)第4次(1952年10月―1953年10月)第5次(1953年5月―)と5次にわたる。翌年、皇学館大学総長に就任、1963=昭和38年10月に政界を引退したが大磯の自邸に派政治家が出入りして政界の実力者として影響を及ぼした。

マッカーサー元帥の葬儀に参列するために渡米、翌年の米寿には天皇から鳩杖を賜って大喜び、その後も回顧録の執筆などを続けた。死の前日、「富士山が見たい」とつぶやき終日、快晴の富士山を見ていたと伝えられる。これが記録に残る最後の言葉だったという。1967=昭和42年10月20日正午に死去、享年89歳。国葬が日本武道館で行われた。

今回の総選挙で自民党の安部総理が返り咲き復活して「戦後、返り咲いたのは吉田総理に次いで二人目」と話題になった。色々あった吉田の人生、年譜をめくっていて「サンフランシスコ平和条約」の調印から帰国した際の朝日新聞の内閣支持率が戦後最高の58%で「ここが吉田の頂点であった」とある。

頂点であるかどうかが自身ではなかなかわからないところに政治家の<業>がある。

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