1. HOME
  2. ブログ
  3. 私の手塚治虫 第25回   峯島正行

私の手塚治虫 第25回   峯島正行

日本最初のテレビ・アニメ「鉄腕アトム」

パイロット・フィルムの試写

手塚治虫は、昭和三四年一一月に予定された、虫プロ第1回作品発表会に、「ある街角の物語り」と同時に、半分ほど、原画の撮影が終わっていた、「鉄腕アトム」のパイロット・フィルムを、上映することに決めた。パイロット・フィルムとは、作品のサンプルのことで、これを見れば、どんな番組が出来るかわかりやすいので、テレビ局やスポンサーとの契約の資料となるものである。

このパイロット・フィルムを造るのにも、大変な苦労をしなければならなかった。先にも説明したように、アニメーションを制作する場合、製作者の意図に沿って、シナリオ担当者がシナリオを造り、それにしたがって、画コンテを造る。そこには、一カットごとに構図とか、キャラクターの動き、背景が描きこまれ、カット版号セリフ、作画の注文なども描きこまれる。

それを受けた原画家が、それにしたがって原画を描き、動画家がその動きを描いて行くのである。

ところが、漫画に忙しい手塚は、画コンテを造る暇がないから、一カットの原画案が、ポツリポツリと原画家のもとに送られてくるに過ぎない。それがどう繋がっていくのか、原画家は分らない。つまり、画コンテは、手塚の頭の中にしかないので、原画が出来ると、それがどう繋がるのか、いちいち手塚に現場に来て貰い、順序を並べて貰わねば仕事は進まない。

その原画の案を受け取るのは、坂本というベテランをトップにしているから原画はすぐに書きあがってしまう。それで手塚に催促するというような進み具合で、能率が上がらなかった。

その為、一一月の発表会がきまったころまでにやっと一話の半分ほどの撮影しか、あがっていなかった。発表会に間に合わせるために、その半分にちかい一〇分ほどのフィルムに、セリフと音楽を入れて、やっとのことで、パイロット・フィルムを作り上げる始末であった。

それでも動画部のアニメーターたちが、その試写を見て、第一話のストーリーが理解できた。

二一世紀の東京。科学者天馬博士は、可愛い一人の息子のトビオ少年を交通事故で亡くし、トビオそっくりのロボットを作り、息子と思い一緒に暮らす。しかしロボットは一向に成長をしない。怒った博士は、ロボットをサーカスに売ってしまう。一〇万馬力の力を持ち、足からジェット噴射で飛ぶそのロボットは、鉄腕アトムと名付けられ、辛い暮らしを押し付けられている。

科学省長官のお茶の水博士は、それを知り、アトムをサーカスから取り戻そうと立上がる……、そうしてあの物語が痛快に展開する。

その試写を見て、製作スタッフはみんな拍手喝采だった。

経営部門の弱体

「虫プロ興亡記」の著者、山本映一は、このパイロット・フィルムの効果につて、簡単に記している。

「パイロット・フィルムの効き目はてきめんだった。局はフジテレビ、スポンサーは明治製菓がきまった。 放送は来年(昭和三八年)1月1日からの毎週火曜日午後六時一五分から四五分までの三〇分となった」(虫プロ興亡記・一九八九年、新潮社)

前述の穴見薫の属する広告代理店の萬年社が動き、スポンサーやテレビ局を回り、このように、早く契約がまとまりスポンサーが決まったということは、作品の前途に、明るい期待を持たせるに十分であった。しかし虫プロとしては、この早急な契約で、二つのマイナス要因を抱えてしまった。

その一つは、契約に際して、手塚が一回の放送料を五十五万円でいいと、はっきり明言してしまったことだ。テレビ局側の方が、そんな安くて、いいのかと念を押したくらいであった。実際は一回の製作費は、二百五十万円は掛かったといわれている。同席していた、虫プロ専務の今井がしきりに、目で合図を送ったにも拘わらず、手塚は平然たるものであった。

これについて手塚は次のように述べている。

「当時、普通のテレビ劇映画の製作費が四、五十万円で、それから飛び離れて高ければ、とてもスポンサーは寄り付かないだろうという思案が一つ。それにうんと安い制作費を発表しておけば、とてもよそでは、それだけではできないだろう――という計算をたてたぼくは、心で泣いて、赤字覚悟でこういったのだ」(ぼくはマンガ家 大和書房 昭和五四年)

あまり安いので、裏になにかあるのではないかと、明治製菓の方で疑ったが、結局手塚の人柄が信用され、契約は無事結ばれた。この製作費はその後,百万円程度、引き上げられたという説もあるし、広告代理店の萬年社が、百五十万にして、虫プロに払ったとかいろいろの説があるが、真相はわからない。いずれにしても、製作費は、放映後引き上げられたのは事実であろうが、それは制作実費に満たない金額であったのは事実ではないだろうか。

第二のマイナス要因は、虫プロの制作能力が検討されずに、放映時期と毎週の放映とし、一回の長さを三〇分と決めてしまったことである。その頃の虫プロの制作能力からすれば、毎週三〇分のアニメーション制作し、それを翌年の一月から放映開始するということは、困難だということは、虫プロの事情を知っているものの眼から見れば、分る筈ではなかったのではなかろうか。

民放のテレビ局が、新番組を始まるときは、電通、博報堂といった、広告代理店が、製作者、テレビ局、スポンサーの間にたち、それぞれの立場、条件を勘案しつつ、契約関係を決めてゆくのが、民放開始以来の慣習のようであった。時には製作者の力をつけるために、人材、資金の面倒まで見る場合さえあった。

「鉄腕アトム」の場合、萬年社の穴見薫という人物が、早くから、虫プロに接近し、制作スタッフと交流し、手塚の広告代理店として協力する約束を取り付けていたので、当然、萬年社が広告代理店として、役割を果たすことになったのであろう。

だから、実行困難な契約を結んだ責任の一端は、萬年社とそれを代表した穴見にあったというべきであろう。

これが萬年社でなく、当時隆盛を極めていた電通とか博報堂とかが、代理店としてついていたならば、どうなったか。虫プロがまだ、制作部門には、一応の人物がある程度揃っていたが、事業経営体としての経営部門が何もできていなかったことを見れば、直ちにその面の充実に力を貸し、また適当な人材を探し出して虫プロに投入させたかも知れない、と思われる。そして、経理、人事、生産管理、対外交渉などの、経営部門の整備を図ったはずであり、その部門が制作部門と相計って、合理的な生産計画、販売計画を立てて、事業を進めたはずである。

勿論、虫プロの社長であり、オーナーであった手塚が経営者である。社長である手塚に、経営する時間なり、その能力があったかという問題を考えてみよう。手塚は、作家としては超一流、世界的なタレントである。然し経営の面については、それと同程度の経験なり、才能があったかというと、疑問とせざるを得ないだろう。そういう場合、手塚社長の作家としての才能に見合うだけの、見識を持った経営担当者が社内にいれば、その言に納得して、経営面を担当させることは、手塚としてもやぶさかでは無い筈であろう。

ところが残念なことに萬年社というのは、そういう人物を探し出したりする能力があったか、また穴見にそういう経営的な才能があったか、どうか、やはり疑問とせざるを得ないだろう。

萬年社という会社は、日本で、最も古い広告代理店で、大阪に本拠を置き、大正時代には大いに栄えたが、昭和に入り、大阪の大企業が本拠を東京に移し始めてから次第に勢力が衰え、一九九〇年に多額の負債を抱え、自己破産してしまう。虫プロに接したしたころは、いわば衰微に向かう斜陽会社であった

テレビアニメにも一〇本ほど関係しただけで終わっている。その十本の最初が鉄腕アトムだったわけである。そういう斜陽会社と取引せざるを得なかったのは、虫プロの不運だとしか言いようがない。穴見もその社員として、懸命に働いたのであろうが、籍を置く会社が左前では、持てる力を発揮できなかったのかも知れない。恐らく、日本最初のテレビアニメを制作する会社に、経営のアドバイスする力も、それに当たる人材を、探し出す能力も無かったといえるのではないだろうか。穴見自身もサラリーマンとして,萬年社の社員として、一部門を担当しただけの経験しかもたず、契約をむすぶだけでも必死だったのではないだろうか。私は彼が、功を焦りすぎたのではないかとさえ、勘ぐりたくなるのを禁じ得ない。

かくして、虫プロは、手塚の力で制作部門では、坂本雄作、山本暎一などを擁し、一流の人材が集まったが、経営部門は人を得なかった。漫画部門の一マネージャーだった山下が専務になったが、経営者型の人物ではない。広告代理店の萬年社、およびその社員穴見薫に事態を見極める力がなかったため、社長の手塚の手の及ばぬ経営部門を補佐、あるいはリードできる人物がないまま、日本最初のテレビアニメ制作に、見切り発車の如く乗り出してしまったことが、後々、マイナス要因として、大きくは働くことになったしまった、と言えるのではないか、と思われる。

「鉄腕アトム」放映が始まった後、穴見が常務として経営に当たることになるが、前記の如く、この人物にそれだけの才腕があったか、どうか。それは、のちになって、一層はっきりしてくる。

ものを作る経営は制作部門と経営管理部門とに自然に分れる。管理部門とは、生産費の管理、その為の経理、生産物の原価の策定、そこから販売計画の樹立、販売の実践と進んでゆく。虫プロの場合、手塚が漫画で稼いだ金を虫プロにつぎ込み、その金で、ドンブリ勘定式に製作、従業員の雇用、その他経費を支払って行く。手塚は、その為にマンガの仕事から手を抜くことは不可能であり、そこからアニメ制作が遅れるという、悪循環の繰り返しになってゆくのはやむを得なかった。

連日徹夜の多忙さ

契約を結んだ以上、実行しなければならない。「鉄腕アトム」の来年一月一日の第一回の放送を控えて、一〇月末になってになってやっと第二話の原画制作があがるという進行状況で、その遅れを取り消すため、虫プロのテレビ部は、夢中で働いた。

一方の映画部の「ある街角の物語」の方は一一月に入ると完成のめどがついた。映画部の連中は、一斉にテレビ部の応援に回った。テレビ部のアトムの方は10月いっぱいでようやく第二話が上がり、11月に入って漸く第三話にかかっていた。年内に最低でも五,六話のストックが出来ないと、毎週の放映に支障をきたす恐れがある

山本暎一は自分の当時の働きぶりを書いている。

「能率を上げるには、結局、時間で頑張るしかなく、日曜も祭日もなくなり、全員が終電車まで残った。明太(この文章の主人公、つまり山本と等身大の男の名)ら独身者は、無人のアパートへ深夜帰ってまたすぐ出てくるのも面倒くさく、そのまま朝まで描きつづけた。

机に向かっていると時間の経過への関心がなくなり、気が付いたら三,四昼夜過ぎていた、などということがザラだった。右手の鉛筆を持つところや、小指の画用紙に擦れる部分の皮がすりむけて赤い肉がのぞき、血染めの原画が出来たりして、包帯を巻かねばならなかった。腹がへったら近所の店からラーメンや焼きそばをとり、眠くなったら机の下にもぐりこんで寝た。……ここはもう浮浪者の巣窟だった」(前掲書)

その頃、虫プロに入社した人物に、若き日のSF作家、石津嵐がいる。石津は元来が演劇青年だったが、若気の至りで、やることなすこと失敗の連続で、完全に食い詰めた。そんな時、電車の中で拾った新聞に、アニメーション映画スタッフ募集という広告があるのを見て、ただちに応募した。アニメーションも、虫プロの社長が手塚治虫であることも知らずにである。そんなうらぶれた青年が無事合格した。面接のとき、やたらに忙しい部署で働きたいと、焼け気味に云ったのだが、そんなこと言わなくても、全社を挙げての大多忙の中に、いやでも放り込まれたのであった。

最初は進行係の一人になったらしいが、

「ボクは、わけのわからないままにあらゆる雑用にこき使われることになったのだ。その初出社の日から1か月というもの、家に帰ることが出来なかった。

全スタッフが、一人三役、四役というハードスケジュールをこなしていたわけで、それは、もう、とても人間様の生活とも思えぬ地獄の様相を呈していた」(秘密の手塚治虫・昭和五五年、太陽企画出版)と、自著に当時の虫プロの様子を描いている。

このような状況の下で、作業の遅れは一挙に解消しようにもなく、時日は刻一刻と過ぎてゆく。

止めるか、進むべきかの境目

テレビ部のチーフアニメーターであり、演出家である坂本は、現在の進行状況では、週一本の放映に穴がなくという心配を、強く感じていた。仲間の原画家を集めて、心情を述べた。

「おれ達が全員でかかれば、1週間で上げなければならない原画と動画に、いまだに四週も五週もかかっている。その遅れの原因には、漫画の方で忙しい手塚先生の手を待つロスも大きい。テレビ・アニメの開拓は漫画を描く片手間で、やれるようなもんじゃない。

と言って,今の虫プロを支えているのは、手塚先生の原稿料収入だし…。テレビアニメは虫プロだけの問題ではない。アニメの未来がかかっている。もしスタートしてしまっておれたちが途中で失敗したら、二度とテレビ・アニメをやるものがいなくなる。だからこの際先生の覚悟を確かめに行こうと思っているんだ」

という坂本の言葉によって、アニメーターが打ち揃って、手塚の仕事場に押しかけていった。手塚は中二階の仕事場で、風邪を引いたといって、寝転んで、原稿を書いていた。

手塚は一同の話を聞いて

「君たちがそこまで考えてくれて、こんな嬉しいことはない。僕にちょっと考えさしてほしい」

と、言うことで、一同はその場を引きさがった。手塚の返事はすぐに来た。それは、手塚が演出、原画を受け持つのは第三話までとし、第四話からは、坂本、杉井、山本、石井、紺野の五人の原画家に任せようというのだった。つまり五人がローテーションを組み、順繰りに各一話ずつ演出を担当する。五人が五週間で、一本の作品のシナリオ、画コンテを描き、原画を描き上げる。

動画以後の仕事は人を分けずに、それぞれのセクションが総がかりで、一本分の作業をしてゆく。

手塚は、シナリオと画コンテのチェック、キャラクターのデザインを引き受け、さらに時間があれば原画を手伝う。時々手塚も一本の作品を担当する。

というものであった。

以上の手塚の提案を皆が受け入れた。漫画で忙しい手塚の手が空くのを待つという計算できない要素が排除され、きつくても、自分たちが頑張れば作業が進むので、この体制を歓迎した。

十二月。現場の苦闘は続いていた。放送開始前に五本をストックしたいという願望も、第三話のダビング完了までが精いっぱいだった。その第三話は、一月一五日に放送されてしまう。一月二二日に放送する第四話は、今作画中である。間に合うのか? よしやそれがやっと間に合ったところで、その次は?

そんなことを考えるとスタッフの面々は、恐怖に身が縮んだ。世間は年末多忙さの真っただ中にあったが、虫プロのスタッフは忙しさの限度を通り越していた。虫プロのテレビアニメの責任者の坂本は強烈な不安に駆られ、ひたすら鉛筆を握り続ける動画家の全員と、アニメにかかわる各部門の責任者を、代理店の穴見を含めて、招集をかけた。

「おれはテレビアニメを手塚先生に提唱し、今日まで必死にやってきた。しかしこのままやってゆけるか?これだけ奮闘してもまだスケジュールに間に合わない。

このまま進むべきか、いったん退くべきか。止めるなら今が最後のチャンスだ。退く、ことに勇気を擁することもある。とにかく放送が始まってしまってからでは、取り返しがうつかない。どうだ、止めると結論が出たら、すぐに先生の元に駆けつける。どうだい?」

と、声涙ともに下る決断を示した。これに反対したのは、山本だけであった。その時、穴見が立ち上がった。大きな図体の男の口から、重々しそうな声が出た。

「僕も反対です。坂本さん、男児たる者、時に命をかけても、腹を切る気でやらなきゃならない場合があるのではないですか。ここは死ぬ気で団結して、やって見ようじゃないですか。この際は、一致団結でやりぬくべきではないですか」

学徒兵の特攻隊上がりらしく、特攻精神でやろうというのだ。みんな黙った。坂本は口を引き締め、「じゃ、血のションベンたらしてもやり抜くか、どうだみんな」

反対するものがなかった。

この時は、男の意気地、特攻精神で行くことになったが、私は、坂本の言うとおり、いったん引いて置いて、十分とはいかないまでも、相当の物的、人的な準備をし直して、改めて出発した方が良かったと、思えるのである。さすが坂本はアニメの先駆者としての先見性があったと、今は思えるのである。

日本人の悪い癖で、男だ、やってやろう、という精神論が、往々にして、勝ちを占めるのである。この特攻精神で何が何でもやり抜こうとしたため、虫プロには、特殊な精神構造が生まれ、それが蔓延し、結局は後年の破局を生み出していったと思われる。

視聴率二七パーセントの大成功

ともあれ、この時以来、虫プロの空気は、冷静な計算より、一層、意気で仕事する雰囲気が強くなったといえようか。

「虫プロはおもちゃ箱をひっくり返したような会社だった。世間の常識に収まるものは一人もいなかったといってよいだろう」

鉄腕アトムの頃、虫プロで、制作進行の仕事をしていた柴山達雄という人物が、「虫プロてんやわんや・誰も知らない手塚治虫」(創樹社美術出版・平成二一年)という本の中で書いている文章である。仕事が目茶目茶な忙しさのために、非常識の人間ばかりできてしまったのだろう。

「地獄のアトム制作に身を投じたが、不夜城と化したスタジオは、鉄腕アトムならぬ徹夜アトム、練馬鑑別所に引っ掛けて練馬貫徹所と、内外から言われるほどの凄まじさだった。動かない漫画を動かすのは口で言うほど簡単なことではない。二三分三〇秒のアトム一話分に描く動画原稿は二千枚から三千枚である。アニメーター不足、連日の徹夜、体力の消耗、鉛筆を握ったまま椅子から落ちて、そのまま床に眠りこけるものが続出した。

ひとたびスタジオに入るや十日や二十日帰宅できなかった。手塚自身もその渦に飲み込まれていた。一日の睡眠時間は二時間ほどあっただろうか。しばしばスタジオの床の上で、ぼろ雑巾のように眠っていた」(前掲書)

というありさまだった。それが延々と続いた。

そのかわり、家内工業的な、牧歌的な面白いところもあった。原画を描くアニメーターは、すでに述べたように高い報酬を受けていたが、その後一般募集で入社してきたスタッフは、会社の規模通りの報酬しか貰っていない。例えば先の石津嵐氏だって、月給一萬三千円ほどしかもらっていなかった。

だが毎日、昼食時になると、手塚のお母さんがスタジオに現れ、スタッフの一人一人に、百円玉、ひとつずつ手渡してくれた。昼食代だ。

「これは定められた給料以外に手塚先生の好意から捻出されたものであった。

この百円玉を握って、近くの蕎麦屋に駆けつけ、五〇円のたぬきそばと四〇円大盛りライスをかっ込んだ。あの頃のことは、手塚先生を語るとき、どうしても連想してしまう風景なのである。

青春の記憶というものは、なぜか、いつも空腹感を伴うものである。」

と石津は前掲書に書き残している。

昭和三八年の元旦。午後六時一五分、フジテレビは、日本中の家庭に、「鉄腕アトム」を送った。先ず谷川俊太郎作詞、高井達雄作曲の、あの懐かしい歌が流れた。

もう引き返せない!

だが、視聴率は二七パーセント。大成功だ。

スタッフ一同、誰も彼も、強い感動に包まれた。前人未踏の大事業をやってのけたのだ。日本最初のテレビ・アニメ。長い間の制作の苦しさも忘れた。

坂本は、去年の暮の暗い顔つきはどこへいったやら、新たな決意で、第四話の撮影にかかり、手塚は新たな作画に入った。それらがやがて、三〇パーセントを超える視聴率を稼ぎ、さらにカラー化により、四〇パーセントを超えるに至るのである。(続く)

関連記事