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“5月30日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1431年  ジャンヌ・ダルクがルーアンのヴィエ・マルシェ広場で火刑に処せられた。

当時のヨーロッパでは英仏の百年戦争が大詰め。<神の啓示を聴いて>立ち上がったジャンヌ・ダルクはイングランド軍に包囲されていたオルレアンに向かう。兵士の先頭に立ち鼓舞することでイングランド軍を追い散らして町を解放することに成功した。「オルレアンの乙女」と呼ばれ、続く多くの戦いでも勝利し、シャルル7世の戴冠を助ける象徴的な存在となった。いったんは戦争の流れを変えるかにみえたものの戦乱は続き、やがて政争の餌食にもなって敵側の手に落ち、牢獄につながれた。

さらに<魔女の疑い>をかけられた不当な宗教裁判により教会からは<異端者>として破門され火刑が言い渡された。魔女裁判による火刑=火あぶりの刑は、「最後の審判」の時まで肉体が残っていなければならないとされていた当時の宗教価値観もさることながら、衆人の前で焼き殺される残酷な刑罰だった。わずか19歳、その灰はセーヌ川に流された。炎の中での最後のことばは「イエズスよ・・・」だったという。

シャルル7世がイングランド軍を打ち破りルーアンに入城したことで改めて「復権裁判」が行われ、1456年7月7日に処刑判決が破棄された。1920年にはローマ教皇ベネディクト15世によって「聖人」に列せられ、フランスの国民的英雄というだけでなくカトリック教会における聖人になった。

最後に珍しく観光ガイドを。ゆかりの場所や建物といえば現在は博物館になっているロレーヌの生家とされる建物、処刑されたヴィエ・マルシェ広場、幽閉されていたブーヴルイユ城の「ジャンヌ・ダルクの塔」などがある。そこまでは足を伸ばせないという方にはパリ・ルーブル美術館前に立つジャンヌ・ダルクの「金張り騎馬像」は人目を引く無料の観光スポットだ。

*1868=慶応4年  東京・千駄ヶ谷の植木屋の一室で若い男が亡くなった。

死因は肺結核、年齢は24歳から27歳まで諸説がある。なぜかというと生年不詳だから。最後まで意識ははっきりしており、繰り返し「先生はどうされたのでしょう。お便りは参りませぬか」と言いながら息を引き取った。幕末、江戸、結核を患っていたという三つに、「先生の名は近藤という」のヒントを出してもこの人物が誰であるかを言い当てるのはよほどの「通」だろう。種明かしすると新撰組の沖田総司。死に場所が京都だったらあるいはおわかりになったか。後のフィクションでは「剣にめっぽう強いうえに明るい性格だが病弱で色白の美青年」として描かれる。病弱というのはもちろん労咳=結核だったから。

奥州白河藩士の子として江戸の白河藩邸で生まれた。市ヶ谷にあった近藤勇の天然理心流の道場「試衛館」で腕をあげ塾頭に抜擢された。近藤の上洛に従い、新撰組の前身・浪士組の結成に参加。分裂後も京都に残って新撰組の主要メンバーとして近藤の右腕・一番隊組長になった。池田屋騒動では近藤と襲撃に参加したが喀血で倒れた。もっともそこまで悪かったら参加できないはずとこれまた諸説あり。剣道の腕前は師匠の近藤をしのぐほどで、本気で立ち会えば近藤もやられるだろうとまで噂された。愛刀は「菊一文字則宗」だったとか、相手が一突きされたと思った瞬間、すでに三度突かれているという「得意技・三段突き」のほうは俗説とも。

病状の悪化で鳥羽・伏見の戦いには参戦できず敗戦後に他の隊士らと海路江戸へ戻っていた。辞世の句は「動かねば闇にへだつや花と水」。近藤が2か月前に斬首されたのを知らされないまま他界、東京・元麻布の專称寺の墓地に眠る。

野次馬めいて恐縮だが、では<美男子>だったのか。若き天才剣士が労咳で夭折してしまうというドラマ性を演出するためには、そうでなければならないのかもしれない。しかし残された証言などにはその証拠はまったくないそうだ。「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」「肩の張った長身だが猫背」など。<ヒラメ顔>とは聞きなれないが、のっぺりしたではなく、目の間隔が寄っているという意味だという。

*1946=昭和21年  警視庁が武装警官を動員して上野の露店街=アメ横を初手入れした。

手入れの主力は生活課員50名が繊維製品、たばこなどの大々的な<禁制品売買>に対しての抜き打ち手入れだった。無法地帯化した闇市なので何があってもおかしくないということで武装警官2個中隊450名とともにトラック5台で乗りつけ強硬手段に出た。抵抗があったのか一部では警官の威嚇発砲もあったようで一時は騒然とした一幕も。朝日新聞には「御徒町のヤミ石鹸問屋急襲」の見出しで、問屋30数軒、トラック15~16台におよんだ押収品は338個などと詳しい。

8月には全国一斉で「闇市取り締まり」が行われたが、焦土と化した都市部での生産・流通機構のマヒ、商店街復興の遅れのなかでいったんは<過渡的代替市場>として承認、黙認されていた闇市などをようやく「取り締まろう」とする攻防が警察という国家組織によって始まったわけだ。

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