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“6月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1689=元禄2年  松尾芭蕉は出羽国(山形)酒田でマクワウリの句を詠んだ。

  初真桑四にや断ン輪に切ン   (真蹟詠草)
おいしそうなマクワウリ、さてこれをタテ四つに切ろうか、それとも輪切りにしようかという意であるが季節感をあらわした一句だ。

人気俳諧師の芭蕉は行く先々で有力な支援者を集めて「俳諧興行」を開いたがこの旅に同行した門弟の曽良も
  初瓜やかふり廻しをおもい出ツ
こちらは切らずにかぶりついた思い出を詠んだ。マクワウリは昔からこの地方の農家で間食として食べられてきたから季節はちょうどその出始めのころ。
  興にめでこころもとなし瓜の味  玉志
  三人の中に翁や初真桑      不玉
という句から席には四人がいたようだが旅の紀行集『奥の細道』には残さなかった。

*1909=明治42年  スリの親分として知られた仕立屋銀次が逮捕された。

本名・富田銀蔵、当時、数え年44歳というから慶応2年の生まれ。<語呂がいい>ので銀蔵が銀次に、もとは仕立屋だったのでそう呼ばれた。世間を騒がせてきただけでなく
「従来、掏摸(=スリ)の検挙は粗漏なるため彼等の跋扈はなはだしく、白昼公然と横行するに至れるも未だ猶、東京市内において彼等の親分なるものの一回も拘留せられし事なきは、奇怪きわまる現象なりと憤慨する者多かりし」(『東京日日新聞』)
という背景があったから新聞は連日書き立てた。

なかでも銀次は<大物中の大物>で手下が250人以上といわれた。13歳で仕立屋に弟子入りして31歳で独立、御徒町に店を構え、お針子6人を抱える繁盛ぶりだった。ところがうち一人の美人娘・おくにとねんごろになる。この浮気がとうとう本妻に知れて実家に帰るのを待っていたように彼女を妾にしたが、これが東京では名高い「清水の熊」というスリの親分の妾腹で親分や母親にも気に入られて<若親分>となり、やがて跡目を継いだ。

何だか講談めいた成りゆきだが銀次はスリの世界には<親分>として入ったので自分では一度も手を染めたことはなく、もっぱら手下のスリたちが持ち込む盗品を引き受けていた。たとえば100円と値踏みすれば3、40円で買い取り、質屋や古物商に売るわけで利ザヤだけで結構な収入があった。カネ回りも良く仕立屋時代のセンスもあり、なかなかの“洒落者”だったらしい。

なぜ捕まったのかというと前々日の21日に元新潟県知事の柏田盛文が麻布広尾橋から青山1丁目まで乗った市電でスリ被害にあった。
それが総理大臣の伊藤侯(博文)から直々に贈与された時価300円もする銀の懐中時計で、柏田は赤坂警察署に被害を届けた。その市電区間は銀次の手下の縄張りということで、妾宅に銀次がいることを内偵でつかんだ署長みずから逮捕に向かった。いまなら監視カメラに映った犯人を先ず捕まえてその自供からとなったのだろうが手下の縄張りからとはずいぶんと思いきった捜査方針ではないか。

赤坂署へ到着した銀次の服装は
「本フランネル製のひとえにセルの和服を重ね、その上に羽織、ねずみ色ちりめんの兵児帯で紺足袋をはき、黒の山高帽。左の薬指にプラチナの指輪をはめ、甲斐絹細巻きの洋傘をステッキ代わりに持ち、五分刈りで鼻下に八字ひげを生やしていて、一見して政治家か大富豪のようす」
と現代のファッション雑誌以上の過熱報道ぶりだ。

家宅捜索で慶長小判1枚、宝石類6点、婦人用18金首掛時計2個、同襟掛け=ネックレス1本、秘密書類を押収したが肝心の銀懐中時計は見つからずじまいだったから<狙い的中>とはいかなかった。しかし子分8人をスリ容疑で逮捕、ここだけで人力車3台分、各所に隠してあった盗品が荷馬車に2台分以上あり証拠品として押収、赤坂署の剣道場に山のように積み上げられた。

<別件逮捕>もいいところで親分を<奪還>するという不穏な情報が駆け巡ったが結局何も起こらず、これに自信を得た警察は「湯島の吉」「銀次の子分・仙吉」大阪出身の「難波の喜三郎」「千日前の利三郎」を次々に逮捕した。秘密書類が何であったのかは不明だが警察側の“内通者リスト”だったかも。銀次は「今後も署のために協力する。その証拠に指を切って血判します」と嘆願したが懲役7年の実刑だった。

感心した手口をひとつだけ紹介すると芝居小屋での「履物スリ」。
芝居通の女性は自分が気に入った役者が出る舞台には<よそ行き>の履物で来る。狙うのは客席の一番後ろの立見席。彼女たちは気に入った役者が見得を切ったり、名台詞を言ったりすると伸びあがる。つま先立ちになった瞬間に、後ろから自分の履物を差し入れ左右入れ替えれば仕事完了。

まさに<心理と技術の極み>だというが本当かなあ、靴ならそうはいかないだろうが。

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