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“7月5日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1888年  スペインの画家・ゴヤの遺骨がフランスから故国に迎えられた。

死後60年ぶり、スペイン政府とフランス政府との交渉が成立してようやく帰国が実現した。
ゴヤの正式名はフランシス・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスとやたら長いので以下は単にゴヤとしておくがディエゴ・ベラスケスとともにスペインが生んだ最大の画家で、17世紀に活躍したベラスケス同様、宮廷画家として重用された。

代表作は『裸のマハ』『着衣のマハ』『我が子を食らうサトゥルヌス』などが知られる。スペイン独立戦争(1808―14)には『マドリード1808年5月3日』や版画集『戦争の惨禍』を制作した。1819年にはマドリード郊外に別荘を購入するとサロンや食堂を飾るために14枚の壁画群から構成される「黒い絵」のシリーズを完成させたあと自由主義者弾圧を避けて24年に78歳でフランスに亡命した。2年後に一時帰国して宮廷画家として辞職を認められたが、さらに2年後、亡命先のボルドーで82年の波乱に富んだ人生を終えた。

さて、話はここからだ。亡命者だったゴヤには“死後の面倒”を見てくれる人物に恵まれなかった。そこで仕方なく息子は義父で同じ亡命者だったドン・マルティン・デ・ゴイコエチェアの墓に“同居”させてもらうことにした。現在のゴヤの作品の価格からすれば「礼拝堂付の墓地」だっていくつも造れるだろうに、このときには財産などまったくなかった。

遺骨の返還を前に両国の政府当局者がゴヤ=ゴイコエチェアの墓石を開いたところで珍事が起きた。二つあるはずの頭蓋骨がひとつしかなく他の骨も荒らされて混ぜこぜになっていた。もっともこの異常事態はこのとき初めて分かったわけで、何者かによってゴヤの頭蓋骨だけが持ち去られてしまったに違いないとされた。今ならさまざまな鑑定方法があるがその当時としては科学的鑑定法などなかったのだから無理もない。

盗まれたのがどうしてゴヤの頭蓋骨となったかというと「ゴイコエチェアのほうは盗まれる理由がない」というだけの根拠で「盗んだのはゴヤの熱狂的な崇拝者に決まっている」というもっともらしい推論が支えになった。乱暴すぎる判定に、残された頭蓋骨がゴヤのなら「おいおい、ったく!」だろうが<死者は語らず>である。

ミステリーファンの私はこう思う。ゴヤには有名な「自画像」(1815年制作)がある。首をかしげてはいるが正面を向いているからこれからシュミレーションできる骨格と残された頭蓋骨を<スーパーインポーズ>すればゴヤかゴイコエチェアかは簡単にわかるはずと、いかがかな。

ゴヤといえば2009年1月にプラド美術館が同館所蔵で長くゴヤの作品とされてきた大作の『巨人』はゴヤが描いたものではなかったという報告書を公表して世界を驚かせた。画面左下から見つかったサインから、同じ工房で働いていた弟子のアセンシオ・フリアの作とみられるというものだった。1931年に寄贈されたが当時はゴヤの研究が進んでいなかったので、伝承どおり<真筆>とされていた。

これがもし大枚はたいて購入したものだったら、あのバラエティ番組「開運!なんでも鑑定団」の贋作鑑定のショックどころではないでしょうなあ。

*1576=天正4年  村上水軍の総大将・村上武吉は出陣にあたり一首を詠んだ。

  塵とのみ つもりて雪や たかま山 さえ行く月は かつらぎのさと

毛利氏の命で毛利水軍として兵糧船、警護船合わせて900隻でいまの大阪城あたりに陣を築いた大坂本願寺の門徒衆の救援に向かった。迎え撃つのは織田水軍だったが、毛利水軍が使った「焙烙(ほうらく)火矢」という火炎手榴弾に船が次々に焼かれて防戦一方になり大敗した。第一次木津河口海戦といわれ、この教訓から信長は伊勢の九鬼氏に命じて鉄板で船全体を覆った大型装甲船の建造を急がせることになった。

大坂本願寺は別名を石山本願寺といい以後10年間にわたって信長らと対峙する。石山合戦、石山十年戦争とも呼ばれる宗教戦争である。海を背にした教団陣地は固い信仰心で結ばれ、そこにさまざまな戦国諸将の思惑が絡んでさしもの信長も苦戦した。

ところで武骨なだけとか荒々しい盗賊団と誤解されがちな瀬戸内海の海賊衆だが意外な側面もある。出陣を前に三島大明神として信仰する伊予大三島(愛媛県)の大山祇(おおやまづみ)神社に戦勝を祈願して連歌を奉納する「雅な文化人」としての顔だ。

構成するそれぞれの水軍は神や先祖を敬う信仰心を共有し、出陣前には社殿に参籠して精進潔斎した。その行事のひとつが「法楽(ほうらく)連歌会」という連歌興行で、これにはすべての武将が参加した。上の句と下の句を互いに詠みあう形式で、この時は5月6日から7月5日まで実に74日間も続いた。

武吉の詠んだのは「結びの歌」である。「かつらぎのさと」はこれから出陣する戦場の東方に古代からの信仰を集めてきた葛城山の麓に広がる情景に思いを馳せた見事な一首である。

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